JCOが「裏マニュアル」を作り、国の承認を受けていない手順で作業を行っていたことが発覚。
この報道を見たときは、さほどの驚きはなかった。むしろ、「やっぱりな」という感じ。全国に、原子力発電所や核燃料の処理工場、その他関連施設がいくつあるのかは知らないが、賭けてもいい、こうしたふざけた作業を行っているところは、東海村のJCOだけではないはずだ。他にもたくさんの、臨界状態寸前の事例があるのは間違いない。
人間ってのは、楽することばかり考えている動物だ。自分を見てれば、そんなことは否応なくわかる。
最初は、核燃料を扱うということに対して、強い緊張があるのは当然だ。ところが、同じ作業を何年も続ければ、いつしか当初の緊張感は薄れ、怠惰と安逸に流れることになる。危険性よりも、作業効率を優先するようになる。「一昨日も昨日も事故なんて起きなかった。今日もきっと大丈夫だろう。えいっ、いいや適当にやっちゃえ」ってことになる。
こ ういう施設の責任者の常套句って、「ここは絶対に安全です」なんだよな。でも、そんなことは「絶対」にありえない。だって、作業するのは人間なんだから。どんなに完璧なマニュアルを作っても、いくら高性能なコンピュータを導入しても、それらを作り、それらを使うのは人間なんだから。そして、人間は、「絶対」なんて言葉とは、遠くかけ離れた存在なんだから。
いつかは、事故が起きるのだ。
それがすべての前提だ。
一昨日の「ノート」では書かなかったが、どうして東海村の住民が比較的冷静なのか、その理由として想像できるものが1つある。それは、彼らがリスクに対する見返りを、あらかじめ得ていたということだ。つまり、金をばら撒かれていたってこと。
人間の行動は、「得失」というものさしによって決められている部分が多い。ちょっと前に、「幸福の条件」っつう映画があったよなあ。ダンディな大金持ちから「100万ドルあげるから、1晩だけ俺の女になれ」と誘われた夫婦の話。あれと基本は同じだ。
もし、大金持ちから提示された額が1万ドルだったら、あの夫婦はそんなバカな提案に耳を貸さなかっただろう。でも、10万ドルだったらどうだったろうか? おそらく、少しは悩んだうえで、拒否したと思う。ところが、それが20万ドルだったら、あるいは30万ドルなら? 50万ドルだったら拒否してただろうか? どこかに、拒否と受諾の臨界点が存在するのだ(そして、それはまさしく100万ドルだったのかもしれない)。
僕が東海村に住んでいたら、きっとそんな風だっただろう。核燃料の関連施設が作られるということに対して、イヤだなあと思う。ところが、住民に対して支払われる補償金だとか、住民に対する就職先の提供とか、そんなものも提示される。で、核というもののもたらすリスクと、施設がもたらす利益を天秤にかけて、反対か賛成か態度を決めるのだ。
だから、東海村の住民は、10年以上前に施設の受け入れを決意したときから、こうした事故が起こるリスクに関して考え抜いていたのかもしれない。考え抜き、受け入れたということは、リスクに関してある程度の覚悟はできていたのだろう。だからこそ、今回比較的冷静でいられたのかもしれないのかな、と。
ところで、「幸福の条件」の大金持ち役って、確かロバート・レッドフォードだったよな。これが佐藤蛾次郎だったら、200万ドルでもどうだったか。それもまた、「得失」のうち。
東海村の住民にとって、JCOはレッドフォードだと思っていたら、実は蛾次郎がお面をかぶっていただけだったと、そういうことなのかも。うん、そりゃ文句の一つも言いたくなるわな。