高校の先輩Tさんに勧められ、産経新聞を取ることになった。
初日の朝刊、1面のコラム「産経抄」は、中国の朱ヨウ(「金」偏に「容」)基首相の発言を取り上げていた。それによると、朱首相は日本記者クラブの会見で「『歴史を隠し、改ざんしようとする一部の人びと』に対し『注意を喚起する』」と述べたらしい。
僕は、この朱首相のコメントを全部読んだわけでもないし、中国と日本の現在の外交情勢にも明るいわけではない。ただ、この部分だけを読めば、ごくごく当然のことを言っているなあという感想しか浮かんでこない。「歴史を隠し、改ざんする」という行為は、例えば「ナチによるユダヤ人虐殺はなかった」とか主張するヤツだろう。そういう歴史修正主義者ってのは、どう考えてもいけ好かない。だって、それって選民主義とか他民族の排除の正当化ってのに直結だもんな。ケツの穴小さすぎじゃない。
ところが、コラムの筆者は、この発言に対して僕とは違う反応を示していた。論旨としては、「35年前に始まった文化大革命は、当初圧倒的に賞賛されていたが、現在では完全に否定されている。このように、歴史に絶対はなく、常に検証され書き改められる運命を持っている。また、歴史認識も、民族によって異なることは不思議でもなんでもない。だから、『日本の歴史のゆがんだ見方』をただそうと努力している人たちに、文句を言うのはおかしい」という流れになっている。
歴史に絶対はないってのは、確かにそうだと思う。民族によって歴史認識は異なるってのも、その通りだよな。その辺のスタンスには、別に異議はない。
だから、中国が、日本に対して「過去の出来事」に対する償いを求めるのは、当然のことだと思う。だって、50年ちょっと前、日本は中国国土に攻め入り、そこで中国人を殺した。ということは、殺された中国人がいたということで、それはすなわち、殺された中国人の家族もいたということだ。彼らのうち、まだ存命の人も多いだろう。それらの人々のために、彼らの利益をも代表しなくてはならない中国政府が行動するのは当然のことだ(だから、いわゆる北朝鮮による日本人拉致事件に対する日本政府の態度、行動は、全然なってないと思う)。
もちろん、日本が中国の意見を取り入れるかどうかは別問題だ。それが適当な主張なのか、仮に適当であれば、どこかで日本と中国の利益の妥協点が見つけられないのか(その際には、同様の要求が今後もなされるかどうかといった点についても検討がなされるべき)を、つぶさに検討してからじゃないとね。
で、お互いに歴史認識の食い違いを見せる二つの国が、お互いに主張をぶつけあい、互いの利益の妥協点を探すことが外交だと僕は思っているのだが、どうも産経の主張からは、「中国はけしからん、黙ってろ!」という不寛容さの匂いが立ちこめていて、それが不快なのだ。
そのことが一番現れているのが『日本の歴史のゆがんだ見方』(どうでもいいけど、これって言葉としてはちょっとわかりづらいよね)というあたりだ。「歪んだ見方」って言葉は、「歪んでない見方」ってのがあるっていう前提でものを言ってるんだよね? 言いかえれば、正しい歴史の見方ってのと、正しくない見方ってのがあるってことだ。それ、すんげえ傲慢じゃない? 自分で「歴史認識に絶対はない」って言っときながら、でも実は、自分の歴史認識は絶対正しいって思ってるみたいに読み取れる。それってどうなん?
朝日を読んでいた頃は、その突っ込みの浅さと思考停止のひどさが嫌で仕方なかった。産経はまだ取り始めたばかりだけど、人の意見は聞かないぞという頑なな姿勢を感じて、それがちょっと気分悪い。
ごめんね、Tさん。でも、これが初日の正直な感想でした。
さて、最近ナショナリズムとの関連で語られる事が多い、サッカーの日本代表の件。
今朝、メールチェックをしたあとに、ISIZE SPORTSをチェックしたら、小野伸二の練習後のコメントが掲載されていた。「以前は前の自分に戻りたいと思っていたけど、今は戻りたいとは思わない」という一節を読んで、思わずグッと感じるものがあった。そうか、小野は戻りつつあるんだなあ。
僕は、他の多くの日本人と同じで、Jリーグより代表戦を好んで見る。そこには、何らかのナショナリズム的感情が作用しているのかもしれない。でも、それだけではないとも思っている。
やはり、誰もが閉塞状態を感じているのだ。しかし、サッカーの代表選手たちは、そこから突きぬけていこうとしている。それが、僕には快感だ。しかも、小野、俊輔、稲本、名波、高原、柳沢、西澤あたりが苦悩し、努力している様を、僕たちはテレビや雑誌(中でもNumberとサッカーマガジン)、新聞などのメディアを通じ、リアルタイムで見ている。そこには、単なるナショナリズムだけではない感情が生まれるのだと思うんだけどなあ。「ああ、あんなに悩んでたお前が、こんなに良くなったんだなあ!」ってな。