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ダイアローグとモノローグ

 イシイさんに「このところのノートは空虚な感じ」と言われてしまった。恐らく現在の僕には、「ダイアローグの心」が欠如しているからだろう。

 当たり前のことだが、言葉は持ち主によって微妙に意味を変えるものである。なぜなら、高度な抽象である言葉を支える具象、すなわち体験は、人によってまったく異なるから。
 言葉は、個人の体験という薄いヴェールを何枚もまとって生まれる、というのが僕の持論だ。例えば、「雨」という言葉。急に雨が降り、母が幼稚園まで傘を持って迎えに来てくれた記憶、ケンカに負け、雨の中走って家まで帰った記憶、高校時代、雨が降る日に女の子とデートした記憶……、それから、それから……。
 そうした記憶の一つ一つは、ほとんど無色透明だ。ところが、そうした記憶のヴェールを無数に重ね、僕の「雨」は、僕だけのニュアンスを帯びるようになっているのだ。

 というわけで、言葉は、人によって必ずしも同じ意味をもつものではないと、僕は思っている。しかし、それはコミュニケーション不全にはつながらない。むしろ、コミュニケーションを豊かなものにしてくれるのだ。言葉のヴェールに切り込み、他者の言葉や思考を体感しようとする作業こそが、言葉や文学の楽しみの最たるものだと思う。

 ところが、それはとてもエネルギーのいる行為だ。疲れているほど、人は言葉を自分に引きつけて理解しがちだ。また、言葉のヴェールをたっぷりと楽しむためには、本質に対して渦を巻くように近づくに如くはない。ところが、執心深さが欠けている時は、言葉の内部に垂直に突っ込んでいくしかないものだ。これは決して褒められる行為ではない。むしろ、言葉が持つ豊かな風をとらえきれずに墜落した、僕の中ではそんなイメージだ。

 そう、僕は疲れているのかも知れない。僕の中には自分の言葉しかないのだ。常にモノローグ。イシイさんは、そのあたりを敏感に感じ取ったのだろうか?

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2001年10月16日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

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