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「目には目」式の刑罰と、被害者側の「裁量枠」

 長崎県で、小学1年生の女の子が誘拐され、殺された事件で、今日犯人と見られる23歳の男が逮捕されたそうだ。夕食を取りながら、NHKのニュース番組でそのことを知り、傍らに座っていた来年小学校に上がる長女を見ながら、僕はひどく嫌な気持ちになった。で、妻に向かって「こんな野郎、死刑だよ、死刑」と吐き捨てた。

 ニュースによると、犯人は取り調べにも素直に応じ、反省と謝罪の言葉も述べているらしい。「かわいいと思った」などと供述しているようなので、おそらくはアニメやマンガなどに触発されたペドフィリアなのだろう。
 この男の犯罪歴は分からないが、手口や動機が稚拙で、取り調べにも素直に応じているところをみると、恐らく初犯なのではないかと思う。すると、未成年者略取誘拐と殺人、死体遺棄で、求刑は懲役15年くらいか。で、判決は10年か12年。模範囚として過ごせば、この男、30歳過ぎくらいには仮釈放になって娑婆に戻ってくることになる。

 これじゃあたまらないじゃないか、そう僕は思うのだ。

 一方は何の非もなく殺された。で、もう一方は、己の欲望を満たすためだけに人を殺したのに、7年だか10年だか臭いメシを食えば、それで普通の暮らしに戻れる。そんなことは、どう考えても道理に合わない。少なくとも僕が被害者の親なら、納得できないと思う。
 また、30歳を過ぎた彼を迎える社会の側も、あまりにも無防備ではないか? この種の犯罪の再犯率が高いのは常識だ。しかし、彼の近隣の住民や学校は、そうした人間が地域にいることを知らされない。警察や裁判所が、特別な監視体制を取るわけでもない。で、もし彼が再犯に及んだら、彼を釈放し、適切な対策を取らなかった社会全体が、一種の「不作為の罪」に当たるんじゃねえのかなあ。

 いや、僕は本当に、こんなヤツは死刑にするべきだと思うのだ。野蛮と非難されようと、「人が人を殺すのはいけない」と理想論で責められても、その信念は変わらない。「目には目」式の刑罰は、ごくごく自然なものだと思うのだ。こうした犯罪を犯した人間に、人権などあり得ない。どんな罪だって、重すぎるということはない。

 確かに、人が人を裁くのは難しいことだ。冤罪で有罪判決を受けた人が簡単に死刑になってしまったら、取り返しがつかない。また、「人が人を殺すのは、どんな理由があってもいけないこと」とか「犯人を殺しても、被害者は戻ってこない」という理屈も、一面では正しいと思う。
 だったら、裁判長(あるいは陪審員)と被害者の家族(不在の場合は弁護人など)に、一種の「裁量枠」を与えてやればいいと思う。人を殺したら(いわゆる「第一級殺人」にあたるケースを想定)、即死刑。ただし、裁判長は公平な立場からの情状の裁量枠を持つ。また、被害者側に犯人を許す気持ちが強ければ、その感情も判決に反映する。例えば、裁判長が情状を酌量し、死刑から(無期懲役ではなく)終身刑に減刑。また、被害者の家族が「犯人にもそれなりの事情があった」と認めたため、終身刑から懲役15年に減刑、なんて仕組みにすればいいんじゃないか? あるいは、被害者の家族に対して、「仇討ち」のオプションを認めるのも一つの手だと思う。

 いずれにせよ、現在は被害者の救済という視点がなさすぎ。
 これじゃあたまらん、そう僕は思うのだ。

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2001年10月27日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

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