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刑は誰のためか?/国民の安全と徴兵制

 山口の母子殺人事件で、控訴審の判決が出た。結果は、一審と同じ無期懲役。
 一審が死刑ではなく、無期懲役の判断を下した根拠は、「少年は未熟で、更生の余地がある」というものだったそうだ。一方、妻と子供を殺された被害者側は、「少年の行為は、万死に値する」と言っていた。で、裁判官は、被害者の感情より、少年の更生の方をとったわけだな。

 ちゃんちゃらおかしいと思うのだ。何の罪もなく殺された側より、むごたらしい方法で2人を殺した犯人の事情が優先されるなど。刑は誰のためにあるのか? 犯人を更生させるため? そんな馬鹿な! だったら全ての犯罪者を、刑務所ではなく、寄宿舎つきの学校にでも入れればいい!
 刑は、犯人のためにあるのではない。被害者のためにあるべきだ。今回の事件では、犯人は自らの都合で2人を殺した。被害者側は、犯人の死を願っている。であれば、判決は死刑以外にないはずだ。

 大体が「更生の余地がある」から、どうして罪が軽くなるんだろうか? 全ての人間には、更生の余地はあるのだ。どんな犯罪を犯した人間であっても、その後聖人になる可能性は残されている、少なくとも可能性としては。だが、その人間が出所し、再び罪を犯す可能性だって、同様に残されているのだ。
 僕は、性善説も性悪説も支持しない。どちらも、顧慮する必要もないほど、単純で皮相的で馬鹿げた意見だ。人間には、よい部分も悪い部分もないまぜになった存在。どんな悪人だって、気まぐれを起こしてちょっとした善行を積むことがあるかもしれないし、どんな善人だって、悪魔に変わる瞬間のある可能性を否定できない。
 犯人は、更生するかもしれない。だが、表面だけ取り繕って模範囚としてすごし、出所後再び犯罪に手を染める可能性だってある。犯人を殺したいほど憎む被害者の感情を無視し、更生のチャンスを与えた裁判所の温情を裏切って、犯人が再び罪を犯したとき、裁判官はどう責任を取るのか? 決して取れはしまい。
 であれば、その犯人が更生するかどうかなどという理由で、刑罰を左右するべきではないのだ。それは、犯人が少年であっても関係ない。

 なんだか腰の入っていない判決だと思うのだ。裁判官には勇気がなさ過ぎる。いや、殺人者は常に殺せというわけじゃない。だが、死に値する罪には、死を与える勇気が必要なのだ。

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 イギリス留学中の女性が、北朝鮮に拉致されていた事件も、ひどいものだ。
 犯罪に関係していた人物から、これだけ詳細な証言が取れているのに、どうして日本政府は毅然とした態度をとらないのだろう? 必要があれば、武力行使の可能性も視野に入れて、行動すべきだと思うのだ。
 政府は、僕らから税金をはじめ、さまざまなものを巻き上げている。であれば、国民が安全を脅かされたときに守るのは、当然の義務だ。人をだまして拉致し、その人生を大きく捻じ曲げるようなことを、決して許すべきではないのだ。

 僕らは、自分たちの安全について、あまりにも無頓着すぎる。自分の安全は自分で守るという意識が、どうにも希薄すぎる。口を開けて待っているだけでは、安全な生活を手に入れることはできないのだ。
 今の世界には、軍事力をもって対処しなければならない問題が、悲しいことだが、ある。
 しかし一方で、軍事力をもって対処しなければならないこの世の中は、不幸だ。
 であれば、いや、むしろ、であるからこそ、僕は徴兵制を導入するべきだと思うのだ。一人一人が問題を自分のものとして捉えるためには、自分が体験するに如くはないからだ。
 そこで、「戦争は絶対的な悪だ。軍事力がなければ平穏な生活が確保できない今の世界は不幸だ。であれば、軍事力なしで平和を確保できる世界を作るために、最大限の努力をしたい」と強く希う人が、たくさん生まれてくれるといい。自分たちが脅かされていることを体感し、そうした脅威から、軍事力を使うなんて愚かな手段ではなく、もっと賢い方法を使って、自分と自分の愛する人を守ることを考える人が、増えてくれるといいと思う。

 僕自身も、そうした方法を探そうと、模索している。

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コメント (1)

Levi:

 「刑は、犯人のためにあるのではない。被害者のためにあるべきだ。」とあります。

 僕は刑事はあんましよく分かりませんが、刑とは、専ら犯人のため、そして「これからの社会一般のため」のものです。
 被害者の感情というものは、そもそも全く考慮されていない構造になっています。

 もし、刑が被害者のためにあるとするならば、それはフランス革命時のギロチン裁判の考え方です。
 その反動がナポレオン時代で、この当時のフランス法体系は、俗に「大陸法」と呼ばれ、多くの国における法体系の基礎になっています。

 そうです。「人民裁判」は、単なる狂気以上のものではないのですから。

 日本の法体系も、この「大陸法」です。
(民事訴訟法は、「英米法」とミックスされちゃってますけど。)

 世の中のマスメディアであるとか、そういうのが、エキセントリックな論調で、理屈ゼロのことをがんがんやっています。
 しかし、こういうのは、法の考え方の大元をガクモンする「法学」というのを押さえると、例えば憲法9条がどーしたとか、そういうことを声高に叫ぶ人々は、ナメクジのように消滅するのではないかと思う昨今。

 いや、何も9条の是非は問うていないのですが、どいつもこいつも「法」の考え方からはあまりにもずれているもので。

 刑事法の話に戻って、こちらは「やや特殊な世界」で、「絶対正義主義」を採用します。刑事訴訟法、ってやつですね。
 なんたって、理由はともかく、ある人を合法的に殺すなんてことをがちゃがちゃやる法廷です。「絶対性」をどこまでも追求する、かなり胃の痛くなるお仕事かと思います。

 ところで、「裁判員制度」というのがスタートするそうで。
 民事なら、相対的に正しそうなのを追えばいい(弁論主義)から、相対的にお気楽です。
 ですが、この「裁判員制度」は、刑事事件が対象。
 特に刑事訴訟法に基づき「絶対的な正しさ」をどこまでも追求する…。
 ぼかぁ、ぜったいに関わりたくありません。

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2002年03月14日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

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