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1999年11月09日

「Xファイル」シーズン・シックス/「YOU」は単複同形

 仕事がなくてヒマなので、「Xファイル」シーズン・シックスのビデオを借りてきて、ダラダラと見ていた。
 このドラマシリーズはすべてみているのだが、一番面白かったのはやっぱりファースト・シーズンからセカンドシーズンにかけてだったなあ。サード・シーズンからは、話のスケールは大きくなるし、予算もかけてるってのがわかるんだけど、主人公モルダーとスカリーの大活躍ってエピソードが少なくなってきて……。変人モルダーが、天才的ひらめきで犯人をつきとめ、一件落着っていう、爽快感をくれるような話が、僕としては一番欲しいのだ。陰謀の前で無力なモルダーってのも、毎回続くとさすがに辛い。
 ただ、こういう連続ドラマって、主人公に感情移入しちゃうと、もう惰性で見ちゃうんだよなあ。僕にとっては、モルダーとスカリーは、どちらも理想の男性、女性像であるのだ。一言で言うと、「知性とユーモアを持つ、アウトローな変人」と、「ちょっと生真面目な、田舎の学級委員」。
 今回のシーズン・シックスでは、本筋の「エイリアンによる入植」とか「政府の陰謀」にまつわる話より、2人のキャラクターに寄りかかったエピソードが目立つ。ファンの間では、そのことに対して不満を持つ人も多いみたいだけど、「モルダー・スカリー大好き」というミーハーな僕からすれば、それもまたいいかなあという感じ。「Triangle」とか、「How the Ghost Stole Christmas」、面白かったですもん。

 しかし、モルダーも38歳かあ。スカリーも35歳だし。年月の流れを感じるのお。


 ところで、「Xファイル」の字幕版を見ていて、(多分)「You,go ahead.」と言っているシーンがあった。意味合いとしては、「一杯やりますか?」「いや、君たちだけで行ってくれ」というようなことなのだが、ふと考え込んでしまった。
 今更気づくのもなんだなあって感じだけど、英語において「You」は単複同形なんだよなあ。「あなた」と「あなたたち」を明確に区別する日本語は、「わたし」と「あなた」という関係を、一歩引いた客観的な立場から眺めていると言える。
 一方の英語では、「わたし」と「あなた」という関係は非常に主観的だ。「あなた」が1人であろうと複数であろうと、「あなた」は「あなた」に変わりない。つまり、この場合の「あなた」とは、「他者」とか「わたし以外の者」という意味だ。
 日本語の方は、「話せばわかる」という哲学を感じさせる。一方の英語は、「万人の万人に対する闘争」という思想をうかがわせる言葉だ。
 高校時代、英語で「I was born.」という文章について考えさせるという授業があった。日本語では「生まれる」だが、英語では「生まれさせられる」という表現になる。これも、絶対神という存在の有無など、日本語文化と英語文化の違いを感じさせられる話だよなあ。

1999年11月11日

「1並び」で券売機がパンク

 今日は、平成11年の11月11日。ニュースでは、11時11分に切符を買う人が集中して、JRの券売機がパンクしたという話も伝えられていた。ご苦労なことだ。
 僕自身、あまりこういうことにこだわりがないんだよなあ。だから、例えばもうすぐ21世紀だとか言われても、だからどうしたって感想しか出てこないし。イスラム歴でも皇紀でも、別に特別な年がやってくるってわけでもないんでしょ? 僕、クリスチャンじゃないもん、2000年とか2001年がやってきたって、別に、ねえ。

 相変わらずの腰痛。さっき友達に、「U2ならぬ、YOU2の日々」なんて、頭の悪い表題のメールを送ってしまい、後悔。
 そう言えば、ICU(集中治療室、だったっけ?)ってあるでしょ、あれって、「I see you」を洒落てるんだと思うんだけどなあ。違うのかなあ?

 相変わらずヒマなので、昼過ぎに書店に向かう。しかし、今日も本を欲しいと思えなかった。仕方なく、Numberの最新号と、「ゴリラーマン」(ハロルド作石/講談社漫画文庫)を1巻から4巻まで買ってきて読む。

 しかし、工藤って本当に巨人に行くのかなあ? それだけは避けて欲しいのだが……。この際贅沢は言わない、名古屋でも許すぞ。ま、僕が許したところで、どうにもならんのだが。

1999年11月24日

風邪をひく/上手いこというなあ

 風邪をひいてしまった。
 朝4時過ぎに目が覚め、何か暖かいものを食べようと思って台所をあさってみる。インスタント味噌汁やレトルトのふかひれスープを見つけたが、どことなくピンとこない。そこで、卵を割り、茶碗蒸を作って食べる。
 僕の茶碗蒸のレシピはいい加減で、解き卵に市販の出し汁、醤油、みりんを加えて混ぜ、沸騰した湯を張った大き目の鍋に入れて15分蒸すというだけのもの。でも、これが結構いけるのだ。特に、今日のように身体が暖かいものを欲しているときは、まだ熱い茶碗蒸が食道の奥を通っていくのがとても快感だ。

 ところで、「風邪をひく」ってのは、英語で「catch cold」だったよなあ。これってイメージとしては、風邪という病気が人間を、うゎーって襲うって感じなのかしら? なんか、ちょっと感じわかるよなあ。風邪くらいだと今は別に襲われるって雰囲気は薄いけど、昔はペストとかコレラクラスの病魔だったのかも。そうすっと、「catchされる」って感じにもなるだろう。上手いこと言うなあ。
 ところで、今まで読んできた小説の中で一番「上手いこと言うなあ」って印象に残ってるのは、高校生のときに現代国語の授業で読んだ、漱石の「こころ」だな。「鉛のような飯を食いました」とか「もう取り返しがつかないという黒い光が、わたしの未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました」なんて言いまわしは、今でも覚えてる。あるいは、梶井基次郎の「檸檬」の、「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧(おさ)えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。」という一節もそうだ。こういう言葉は、なかなか忘れない。
 で、こういう表現を、高校や大学時代はマネして書いたりしたもんだ。今読むと、そういう文章ってメチャこっぱずかしいんだろうなあ。ま、若気の至りってヤツか。

2000年01月01日

な~にがミレニアムだっつうの/リニューアル、続き

 テレビをつけると、「ミレニアム」って単語の連発。なんだい、そりゃ? 僕が使っているMacもWindowsマシンも、「ミレニアム」なんて単語、一発で変換できなかったぞ。
 確かに、今年は西暦で言うところの2000年だ。2000年の1月1日。めでたい。でもさ、それがどうしたんだっつうの。1999年の次には2000年がくるし、1月1日のあとには1月2日がやってくる。そして毎日は続いてく。そういうものだろうよ。
 雑誌、特に「情報誌」と呼ばれる場所で仕事をしている人間としては、みんなが大騒ぎをしていたらいっしょになって騒ぎ通すべきだと思う。それが芸人根性って言うか、雑誌屋の心意気ってもんだろうな。
 でも、やっぱり僕はイヤだ。


 さて、昨年末にトップページをリニューアルしたのだが、どうも出来栄えに不満。さらに変更を重ねる。
 でも、ウェブってのは表現が限られてるんだなあ。特に、フレームを複数使おうとすると、画面サイズ(できれば800*600サイズでも見られるようにしようと思っているのだが)の制限が重くのしかかってくる。それから、個人的にはFLASHとかSHOCKWAVEとかも使ってみたいのだが、でもなあ、一方でテキストオンリーの軽いページにも良さはあるし……。悩むものなんだなあ。
 今度ウェブデザイナーと話す機会があったら、いろいろと聞いてみよう。


 昼夜逆転の生活リズムとお屠蘇(といってもビールと白ワインだが)、そして「トルネコの大冒険2」のおかげで、すっかり脳みそツルツル状態。

2000年01月26日

日本人、TOEFLの不出来/日本語圏内で暮らしたい/学級閉鎖と学童保育

 朝日新聞の朝刊を見ると、「TOEFL平均点 やっと最下位脱出」って見出しが出ていた。
 別に、TOEFLの平均スコアが低くたって、それが即、日本人が英語ができないということにはならない。だって、例えば上位にランクされているフィリピンやスリランカ、ネパールといった国でTOEFLを受けているのは、ほぼ例外なく、大金持ちの子弟でしかも優秀な人々だろう。ところが日本では、飛びぬけて裕福でなくても、飛びぬけて優秀でなくてもTOEFLくらい受ける。きっと、そういう人たちが平均点を下げているのだろう。

 それはともかく、僕は英語ができない。これは非常に困ったことだ。
 日本は、かなりヤバイ。ほんの10年くらいの間だけなんとか取り繕えばいいと思ってる、「勝ち逃げ世代」の年寄り政治家の皆様方がひどいことをやってるからな。この先、僕が50歳くらいになったら、どんなことになっちゃうんだろうって思う。そんなとき、だったら壊れた日本に見切りをつけて、海外で居住権を取ろうかなんて考えるんだよなあ。
 でも、やっぱ言葉ができないとキツイっしょ。周りの人の喋ってることもわからず、周りの人に自分の意思を伝えることもできない。そんな環境で暮らすのは大変だよなあ。仮に言葉の意味がわかってきたとしても、今使っている日本語と同じレベルで、英語なり他の言語を使いこなせるようになるとは思えない。

 言葉というのは、これまでの経験を幾重にも身にまとって存在しているもの。それら経験のヴェールは、1枚1枚見るとほとんど無色透明なのだが、何枚も重ねるとえもいわれぬ色合いを言葉に与えてくれるのだ。言葉のまわりを覆っている、その経験のヴェールこそが、僕の言葉を、そして誰かの言葉を豊かにしている。
 ところが、母国語以外の言語では、そうはいかない。その言葉を使って得た経験が、絶対的に不足しているんだもん。言葉の腹を切り開いてみても、なんにも出てきやしない。僕は、そんな言葉を使って生活しなきゃいけないなんて、ヤダなあ。

 なので、僕は日本で(正確に言えば「日本語の中で」)暮らしつづけたいのだ。だから、僕の生活を取り巻く状況を、少しでも悪くならないようにしたい。仕方ないんだよ、だって僕は、ここで暮らしつづけるしかないんだから。ため息をつき、無力感に苛まれ、それでも日本の中でやって行かないと仕方ない。なので、「政治」なんて面倒な、ダサいテーマについてうだうだと考えているわけだ。
 あ~あ。


 隣に住んでるNさんの息子さんが、インフルエンザで幼稚園を休んでいるそうだ。でも、クラスの3分の2が休んでるのに、学級閉鎖にはならないらしい。へえ、そんなもんなんだなあ。
 で、今日その話を保育園の園長先生にしてみたら、小学校では学級閉鎖になると、学童保育(放課後、小学生の面倒を見るための施設。保育園は夕方までオープンしてるが、小学校の場合、低学年では昼過ぎに授業が終わってしまうケースも多い。そのため、親が仕事から戻る夕方まで、子供たちを見る場が必要なのだ)も閉鎖になってしまうという話を聞いた。つまり、自分の子供は元気なのに、学級閉鎖になると親は仕事を休まなきゃならないっつうことになる。こりゃキツイなあ。
 大体、正社員で働いている人だって、年間の有給休暇はせいぜい20日あればいい方でしょ? 月に2日のペースで子供が休んだら、すぐに使い果たしちゃう。それに、僕みたいなフリーランスや、パートタイムで働いている人には、有給なんて最初からなかったりもするわけだし。
 じいちゃんばあちゃんが同居していて、しかも地域の大人が一定の連帯感を持ち、遊んでいる子供に目を配っていた頃なら、別に問題はなかったんだろう。子供の数も多かったから、年長の子供がリーダーになって作るコミュニティにいれば、それほど危険も高くなかったろうし。でも今は、育児に祖父母のヘルプを期待できる家庭は必ずしも多くない。それに、例えば子供が誘拐されかかっていても、それを無視して行ってしまう大人がたっくさんいる時代だもんなあ。

 そういう状況に対して何らかの対策をとっていかないと、やっぱり育児は大変なのだ。


 自動車事故にあったデリック・トーマスは、どうやら命に別状はなさそうだ(ただし、同乗者は亡くなったようだが……)。しかし、脊椎に損傷を受けたらしく、選手生命が立たれる可能性もあるらしい。う~む。彼の爆発的なスピード、QBに襲いかかるラッシュ、もう見られないのかなあ……?

2000年02月26日

ちょっとした絶望感/釜本氏とトルシエ監督、日本の国際化

 いや、自分でも笑うな、今月の更新頻度の低さには。
 昨年10月からの「ノート」のファイルサイズは、57KB→67KB→55KB→66KBと、ずっと安定してたのに。今月書いたのは、このページに全部収まっちゃう量の文章だけ。せいぜい5~6KBってとこか? ははは、ホントに笑わせてくれる。

 自分としては、今、軽い絶望感に襲われているところ。このサイトは、自分自身を囲む社会的環境を改善するための手段として作ってるつもりなのだが、なんだか最近、そういった方向の努力をするより、海外へ移住する算段を取る方がマシなように思えてきてるのだ。社会を良くするより、住み良い社会に移る。あるいは、自分たちと同じ志向を持つ人だけを集めて、共同体を作る(って、そりゃオウムとかライフスペースとおんなじ思考法か)方が、よっぽど楽なように思えてきてるのだ。

 ここ数ヶ月で、保育に関する集会にいくつか出席した。で、ほとんどの場所で、僕は何らかの温度差を感じたのだ。調子の良いときなら「どうってことねえですよ」(byアントニオ猪木)で済ませられるような、ごく微妙なものだと思う(また、そう思いたい)のだが、今の僕にはその差を埋めることがひどく難しいことのように感じられる。

 そんな気分を引きずっているがゆえに、ついついこのサイトから足が遠のいた。
 ま、そんなことばかりも言ってられない状況なので、とにかくアクセルを踏みなおさなきゃと焦ってはいるのだが……。どうも空ぶかし状態かも。


 サッカーの日本代表では、まだ監督の選考でゴタゴタやってるらしい。なんでも、釜本氏がトルシエ監督と面談し、彼が監督として適任かどうかというレポートを書くっていうことだ。ホントは、わはははって笑い飛ばしたい気分なんだけど、どうもそんな気になれない。

 ガンバ大阪時代の釜本監督の業績を、別につぶさに見ていたわけではない。だからこれは、あくまで僕の個人的な印象&意見なんだけどさ、釜本さんってサッカー語を喋れない人だと思うんだよな。彼の喋っているのは、例えば「蹴球語」とかそういった類のもの。日本国内(中でもサッカー協会内)では感度120%でビンビン伝わるのかもしれないけど、フランスでは役に立たなかったし、オーストラリアでもおそらく通じない。何年か先、海外から東京にやってきた賓客をエスコートしなきゃなんないときも、全然役に立たないんだろう。
 いや、釜本さんって偉大な選手だと思うんだよ、良くは知らないけど。でも、『北京原人』だって実業団の大会に出て、ガンガン走っちゃうわけだからなあ、って例えが悪すぎか。ともかく、サッカーで点が取れることと、サッカー語が喋れることとは完全なイコールではないと思うのだ(もちろん重なる部分も多いんだろうけどさ)。

 今、日本代表の試合を見ていて一番楽しいのは、断然中村俊輔のプレイだ。多くの選手がキレイなプレイをすることにとらわれている中、俊輔だけは、ディフェンダーを騙し、裏切り、抜け駆けし、あざ笑ってたりするもんな。それってきっと、ブラジルあたりの裏通りにある広場で、素足でボールをけってる子供たちと、やってることはきっと同じなんだろうな。あるいはローマで、アルマーニを着ている間の抜けた紳士から財布を掠め取ってるガキとかと。

 フランスからやってきた、泥棒指南のトルシエ先生、僕としてはものすごく好もしいと思うんだけどな。それに対し、ジャージ姿で「走れ、走れ」なんて怒鳴ってそうな釜本さんが物言いをつけているってのは、どうにも笑っちゃう。十数カ国語を流暢に操る言語の専門家に対して、バーバルな人が「お前の言葉はちっともわからん。お前さんは言葉をしらねえな」って毒づいてるようなもんだ、ってちょっと言い過ぎかな。

 でも、シドニーは目の前。2002年ももうすぐ。やっぱり、笑いたくても笑えないんだよな……。


 そうそう、たしか小渕首相が、英語を第二の公用語にって言ってたらしいな。この人もきっと、国際語が話せないんだろうな(噂では、英語は喋れるようなのだが)。
 サッカーとおんなじだ。キレイなダイレクトプレーができたって、それが国際的に通じるサッカーってわけじゃない。そこに宿ってるサッカースピリットみたいなもんが大事なんだろうよ。英語の学習時間を増やしたり、英語を公用語に決めたって、それで魂のこもった英語を喋れるわけじゃないと思うんだよな。

 こういう話も結局やっぱり、話は「日本って絶望的だよな」ってところに落ち着いたりするのかなあ。なんだか、ひどく悲しくて、憂鬱になっちゃう。

2000年02月27日

ニッポンとジャパン

 唐突だけど、どういうわけで「日本」の英語発音(?)って「ジャパン」なのかなあ?

 いやね、昨日、リングスの田村がヘンゾ・グレイシーを倒したんだよな。桜庭はホイラーを倒したし、あとは船木対ヒクソン戦、桜庭対ホイス戦かあ、なんて考えてたら、「そう言えばブラジルでは、Rってどう発音すんのかな?」という疑問が頭をもたげてきたのだ。
 ヒクソンって、たしかスペルは「Rickson」だったような気がするんだよな。ホイスも「Royce」とか書いてたような覚えがある。そだ、以前見たサッカーブラジル代表の試合でも、あるアナウンサーがロナウドのことを「ホナウド」、ロナウジーニョを「ホナウジーニョ」って呼んでたなあ(あ、でもロベ・カルは「ロベルト・カルロス」って呼んでたけど)。おそらく、ブラジルではRを「はひふへほ」で発音するに違いない。

 まあ、こういうことっておそらく頻繁にあるんだろうな。例えば、プロゴルファーの青木功って、海外ツアーに参戦してしばらくは「アオキ」じゃなくて「エイオーキ」って呼ばれてたらしいしさ。そういう意味じゃあ、野茂っていい名前だったんだろな、アメリカのファンへのなじみやすさってことで言えば。すごいピッチングをして、「あんなピッチャー、No Moreだ」なんてダジャレが言いやすい。日本で言うと、そうだなあ、元ジャイアンツのジョンソンが、スポーツ新聞に「ジョン損」って書かれるようなもんか。ソンがつく名前は日本では辛いわな、トマソンもそうだったし。こういう例は事欠かないな、元広島カープのランスが、相手チームに手痛い一発を浴びせると「ランスにゴン!」だし、金田正一は元日ハムのソレイタがホームランを打ったときに「それ行った!」っと大喜びして叫んでたし。あ、そうそう、城って名前はスペイン人にはわかりやすいんだろうな、しかし、「Jo」かあ。ヨーロッパ圏内ではこういう名前、違和感ないんだろうか? 僕的には、(元?)フランス代表で、ペルージャでは中田のチームメイトだったイブライム・バの名前を聞いて、「ええっ、しかしバて」って驚いた記憶があるからな……。

 ……って、脱線してきた。つまり、個人の名前っつうレベルでは、その人の出身地の発音より、その人の名前を呼ぶ側の発音方法が優先されるケースもあるってことだよな。それはそうかもしれない。

 でもなあ、「ニッポン」と「ジャパン」の間には、発音体系の違いでは片付けられない、もっと大きな違いがある。

 想像するに、多分「ジパング」っていう発音は、中国経由でヨーロッパに伝わったんだろうな。つうか、当時はそれ以外に日本の情報がヨーロッパに伝わる可能性はあまりなかったんだろう。で、その呼び方がいつのまにかヨーロッパ社会に定着してしまった、と。(ちなみに、ジパングって元はどんな中国語だったんだろう? やっぱり、「倭」とか、あるいは「匈奴」とか「鮮卑」みたいな意味合いだったんだろうなあ。)

 その歴史的経緯はわかる。でも、どうしてどこかのタイミングで、日本は「われわれはジャパンじゃないっすよ、ニッポンですよ」って訂正しなかったんだろうか? 
 かなり前の話、トルコの大使館が「風俗店の呼称にわが国の名前を使うのは許せない」って言い出して、それで「トルコ風呂」が「ソープランド」になったってことがあったよな。僕も、トルコ人の気持ちはわかる。名前ってのは大事なものだもんね。
 それから、ソウルオリンピック。他しかあの時、韓国人や日本人の名前は「TANAKA ICHIRO」のように表記されていた気がする(「JOHNSON,BEN」と表記されていたかどうかは記憶がない)。あれは、「そうだよな、俺の名前って輝英白谷じゃなくて、白谷輝英だもんなあ」と新鮮に感じたもんだ。

 そんな僕にとっては、「国内的には日本、対外的にはジャパン」でOKってことにしている2重構造は、ちょっとだけ不思議な感じがするわけだ。いいじゃん、対外的にもニッポンで、って。


 個人的には、「海外の人がジャパンって呼んでるから、それでいいことにしましょう」って態度は、国際化って言葉とは正反対ないかと疑うのだ。むしろ、「俺たちはニッポンだから、みんなもそう呼んでよ」って姿勢のヤツの方が、真の国際人だと思ってたりする。無軌道な同一化ってのはおバカさん、個体差を認め合った上での共存ってのが、大人のやり方ってものだ。
 なので、英語の公用語化ってのも変な話だと思うねえ。それより、日本語教育をもうすこし充実させて、さらに小学生くらいから比較言語学的なこと(もちろん、小学生レベルにトランスレートしてさ)を教えた方がいいんじゃねえかと思う。

2000年05月13日

「子供」と「子ども」

 昼過ぎから、「市川市公立保育園父母の会」の役員会に出席。そこで、昨年度のものを参考にして僕が草案を書いた「活動方針」に、他の役員からクレーム。いわく、「『子供』ではなく、『子ども』に書き換えて下さい」だって。
 当然のことながら、僕は聞き返した、どうしてですか、って。そしたら、「朝日新聞の用例便覧(?)にのっとってますから」というお返事。その瞬間、かなりへこんでしまった。
 「子供」だろうが「子ども」だろうがどっちでもいいじゃん、大体、漢字でOKなのにわざわざ開く感覚って、「筑波」を「つくば」にするみたいな、「どうですかあ~わかりやすいでしょ~! みたいな勘違いしたお役所(あるいは政党)の感覚みたいで、メチャダサいと思うんだよな、僕的には。それに、朝日新聞の文章が一番正しいっていう考え方も、完全に間違ってるだろよ、違うか?
 とはいえ、こんなところでもめたって、なんのメリットもない。僕は「はあ、そうですか」とだけ言って、引っ込みましたよ。貴重な休日を、解決しそうにもない論争でつぶしたくなかったし。
 他にも、いくつか直しを入れられた。「これは公的な文章だから、どこからも変な突っ込みが入らないようにしたい。そのためには、厳密な文章を期したい」って意図は良くわかる。でも、それゆえ悪い文章や読みづらい文章にしても仕方ないと思うんだけど……。ま、これってライターにだけ通用する感覚で、一般の人には受け入れてもらえないんだろうかなあ?

 ちなみに、家に帰って彼女に話をしてみると、「供」の字には添え物とか従者とかいうニュアンスがあるからダメなんだそうだ。なんだい、そりゃ。今、子供の「供」は、お供の「供」だなんて認識しているヤツ、誰もいないっつうの。
 しかし、もし政治の世界にもっと首を突っ込んでいくと、そんな細かい部分に茶々を入れる人たちとも付き合っていかなきゃならないのか……。くぅ~、シンドそうだなあ。

2000年10月16日

反省しないマスコミ/素晴らしすぎる「日刊ゲンダイ」/新聞を再購読することに/人間の体の「境界」/クルーソーパソコン、いいなあ

 英国人女性の失踪事件で、40代の会社社長ってのが疑われているらしい。

 それは別に構わないのだが、現時点でその会社社長ってのは別件での取調べを受けているだけなんでしょ? 女性の失踪については関与を否定しているのに、マスコミ(といっても、現在僕はいわゆる一般紙ってのを読んでないので、テレビとスポーツ紙、夕刊紙くらいしか知らないのだが)は完全に彼を犯罪者呼ばわり。実名はもちろん、写真(最近のものが手配できなかったのだろう、どのテレビ局も高校時代の写真だった。おいおい、30年前の写真出して、意味あるのか?)やら経歴やらをガンガン出してる。日刊ゲンダイなんて「レイプ魔社長」呼ばわりだもん。
 長野サリン事件で無実の男性を犯罪者扱いして、あれだけ叩かれたのに、相変わらずこのありさまだ、日本のマスコミってのは。

 僕の大好きな小話に、こんなのがある。

「客船が沈みました。海に投げ出された人々は救命ボートにつかまりましたが、ボートは定員を完全にオーバー。そこで人々は話し合い、女性と子供を助けるために、男性が犠牲になる事に決まりました。
まず最初に声を掛けられたのはアメリカ人の男性でした。
『正義のためです。あなたはボートから降りてください』『わかりました』
ジャボーン! アメリカ人は海の中に飛び込み、帰らぬ人となりました。
次に声を掛けられたのはイギリス人です。
『あなた自身の名誉を守るため、ボートから降りてください』『わかりました』
ジャボーン! イギリス人は海に飛び込み、二度と戻りませんでした。
次はドイツ人です。
『これは規則ですから、ボートから降りてください』『わかりました』
ジャボーン! ドイツ人も、波に消えていきました。
最後に残されたのは日本人。
『みんな飛び込みましたから、あなたもやってください』『わかりました』
ジャボーン!」

 日本のマスコミには、絶対的な価値基準ってものが完全に欠如している。「この事件はまだ『推定無罪』だから、ウチの社では実名報道は行わない」なんて思考はしない。「他の社が報道してるから、ウチもやってもいいだろう」と考えるだけ。いや、考えてもいないんだろうな、単に反応しているにすぎない。なんだか昆虫みたいだ、日本のマスコミは。
 いや、マスコミだけじゃないやな。僕も含めた日本人全般も、きっとあんまり考えちゃいねえんだろう。マスコミとマスは、いつでも絶妙の釣り合いを保っているものだもん。「マスコミって馬鹿だよな~」って行為は、天に唾しているだけ。


 そうそう、日刊ゲンダイといえば、この前期待通りの記事を書いてくれてた。いわく「中田『五輪あたりで働けず』世界の評価ガタ落ち」だってさ。 「シドニー五輪でさえあの程度の働きしかできない。テングになってダメになった。もともとイタリアでは戦力より、話題と副業でモテていただけ。今の状態が実力通り」なんだと。あんまり予想通りの記事だったので、思わずニコニコしちまったですよ。
 野茂も渡米前や、成績が悪くなった時期には「ポンコツ」とか「日本の恥をさらすだけ」って言われてたなあ。イチローも、スランプになったら叩き放題叩かれるのだろう。くわばらくわばら。ま、彼らはせいぜい蚊に刺されたくらいにしか感じないだろうけど。

 しかし、ここまで「ダメな日本人」の典型を日刊ゲンダイさんに見せていただけると、逆に気持ちいいよね。溜飲が下がる思いってやつかもしれない。

 彼らにとって、「日本人は、世界では絶対通用しないダメ民族」なのだ。ホントは違うのにね、「日刊ゲンダイの記者およびその読者は、世界では絶対通用しないダメ人間」ってだけなのに。でもな、自分がダメって認識するより、日本人がダメって認識する方が気が楽なんだろうなあ。ため息しか出ない話だけど、これが現実。そして、日本人のかなりの部分のメンタリティは、実は「日刊ゲンダイ的」なのではないかと思うのだ。

 話は飛ぶが、今日、僕が子供時代に住んでいた市原市で、いじめが原因で中学生の女の子が自殺したというニュースが報道されていた。いじめ。なんとも「日本らしい」出来事だよな。
 絶対的価値基準を持てず、相対的な価値に流される。突出した人間を嫌い、足を引っ張る。そうなのだ、心に一本筋が通ってない、クラゲのような人々なのだ、私たち日本人というものは。常に他人と比較する事でしか、自分自身の位置を確認できない。だから、他人の幸せは己の不幸、他人の不幸は蜜の味。そして、お寒い足の引っ張り合いは、今日も続く……。


 友人のIさんが、よく僕に言う。こんな日本捨てちゃって、アメリカにでも行く方がいいんじゃねえの、って。
 いつも僕は、こう答える、んな簡単にいくわけねえじゃん、俺って、生まれてこのかた日本語で暮らし、日本語で考えてきたんだからさあ、人間は言葉を使って考えるわけでしょ、だったら日本語が使えない場所、日本語が聞こえない場所に行ったら、俺の思考はどうなっちゃうわけ? 確かに日本はナニだけど、海外に行って自分の思考が鈍ってしまうのも嫌だよなあ……、って。

 だが、なんだか最近シュルシュルだ。Iさんの言う事ももっともだよなあって、よく思う。

 ただ、やっぱり僕は日本で生きていくんだろうと思う。だから、いろいろじたばたしてるんだよな。「父母会」とか「地域活動」とか「政治」なんて、辛気臭いことに手を出しながらさ。

 あ~あ。


 さて、この1ヶ月半ほど、僕は新聞を取る事をやめていたのだが、再び購読することを決意。知人のTさんの勧めで、初めて「産経新聞」を読む事になりそうだ。そして、3ヶ月後には日経にチェンジし、その時点でまた、購読を続けるかどうか再検討しようと思う。
 新聞を読まないことで、いくつかのデメリットがあった。テレビ番組がわからないとか、チラシが入らないってのもあったのだけれど、最大のものは、自分にとって関心の薄い分野の情報が全く入らなくなってしまうって事だったなあ。
 そりゃまあ、プル型の情報収集がちゃんとできる人間ならいいんだが、こちとらズボラっつうことに関しては強い自負を持っているわけだ(って威張ってどうする!)。やっぱり、プッシュ型のメディアを持っておかないと、一気に世間に疎くなっちゃうよな。


 先週の土曜日は、ウチの子供の保育園の運動会だった。昨年、園と近隣住民との間でトラブルが起こって以来、園庭での開催が難しくなってしまったため、会場は近くの小学校だった。
 保育園から小学校までは、大人の足で徒歩5分ほど。車で行けばほんの2分ほどの距離だ。しかし、運動会にはさまざまな機材が必要。玉入れ用の籠や平均台、イスに机などを保育園から運ばなければならないのだが、当然のことながら保育士さんは全員女性。そこで昨年に引き続き、父母の中の有志が会場の設営、撤収を手伝うことになった。
 僕は撤収の方を手伝う事になった。昼過ぎに運動会が終わり、機材をバンに積んで、僕は保育士さん2人とともに車に乗りこんだ。すると、園ではとってもやさしい保育士さんが、ハンドルを握った途端に豹変。近くを自転車で通った小学生くらいの女の子に、車内から「おら~っ、邪魔なんだよ~っ!」などと毒づいてた(もちろん、車外には声は聞こえてないと思うけど)。

 いやあ、しかしハンドルを握ると正確変わる人って、ホントに多いよな。
 これって多分、運転している人の意識の中で、ハンドルを通じて自分と車が一体化しちゃってるってイメージがあるからじゃないかと思うのだ。ある意味、車と自分の体が接続され、自分自身が「拡張」されたような。

 僕は、人間の体の境界は、意外とあやふやなものだと思っている。人間の輪郭というものは、流動的でやわらかなものだ、少なくとも人間の意識の中では。だからこそ、人はキスやセックスをする。トラックに乗ると急に気が大きくなる運転手や、電車のつり革につかまれない人がいるのもそのせいなのだろう。

 コンピュータ技術、特にインターネットというものも、人間の境界を拡張できるツールのひとつだろう。人間はネットを通じて何かに接続し、それまでとは違う輪郭の存在に変わるのだろうと思う。
 だからなあ、僕は、顔も知らない人とネットを通じたコミュニケーションをすることには、どうしても腰が引けてしまう。だって、ネットを通じて触れ合う人格ってのは、その人のナマの人格とは異なる輪郭で立ち現れるものだから。知人・友人と掲示板で話すのは楽しいけど、会ったことのない人と話すのはなあ……。
 別に未知の人と話すことが楽しくないわけじゃないよ、ただ、それはやはりバーチャルな関係でしかないと思う。だって、こっちも相手も、ナマの人格とは異なる輪郭同士で話をするわけだからさあ。お互いに、そうした状況で話をしていることを認識してりゃあいいんだけどね、変に期待するのは避けようってだけなんだけどさ。


 クルーソーパソコン、いいなあ。

 出先の編集部で原稿を書く機会がたまにあるのだが、慣れない(といっても、このサイトは常にWindowsマシンで作っているし、仕事でWindowsのアプリケーションを使う機会も多いんだけど)Windowsマシンで作業をするのはストレスがたまるものだ。それに、なにしろWindowsはダサい! 使っているうちに、パワーが抜かれてしまうような気がするほどだ。だから、本当は慣れたMacOSが使えるパワーブックなりiBookが欲しい。今持っているのは、4年前に買った旧型のパワーブック(CPUが68040なんだよな……)のみ。テキストを書くだけなら使えなくはないのだが、外付けモデムなしではネットへの接続もできないし、第一バッテリーが大して持ちゃしねえ。ACアダプターは無駄にでかくて重いしなあ。
 でも、新しいパワーブックを買おうという気は起こらない。だって、例外なく重いし、高い。iBookという選択肢は値段の面では魅力だけど、あれ、仕事に使うにはちょっとアレなデザインだよねえ。特に、キーボードの色があんまりにもオモチャっぽくて嫌い。。

 そこに、クルーソーCPU内蔵パソコンの登場だ。VAIOのC1だったら、Sバッテリーで4~5時間持つらしい。仕事に使うだけでなく、MP3を電車の中で聞いたりメールチェックもしたいと思っている僕にとっては、かなり魅力の商品だ。11月に出る富士通の「LOOX」ってヤツも、安いし軽いしで結構惹かれている。
 おそらく、年末から来春にかけて、松下や東芝も同様の商品を出してくるだろう。そしたら、一番よさそうなヤツを買っちゃおうかなあ?

 最悪、MacOSのエミュレーター「FUSION」でも入れるって手があるし。うん、ちょっと楽しみだ。

2001年10月16日

ダイアローグとモノローグ

 イシイさんに「このところのノートは空虚な感じ」と言われてしまった。恐らく現在の僕には、「ダイアローグの心」が欠如しているからだろう。

 当たり前のことだが、言葉は持ち主によって微妙に意味を変えるものである。なぜなら、高度な抽象である言葉を支える具象、すなわち体験は、人によってまったく異なるから。
 言葉は、個人の体験という薄いヴェールを何枚もまとって生まれる、というのが僕の持論だ。例えば、「雨」という言葉。急に雨が降り、母が幼稚園まで傘を持って迎えに来てくれた記憶、ケンカに負け、雨の中走って家まで帰った記憶、高校時代、雨が降る日に女の子とデートした記憶……、それから、それから……。
 そうした記憶の一つ一つは、ほとんど無色透明だ。ところが、そうした記憶のヴェールを無数に重ね、僕の「雨」は、僕だけのニュアンスを帯びるようになっているのだ。

 というわけで、言葉は、人によって必ずしも同じ意味をもつものではないと、僕は思っている。しかし、それはコミュニケーション不全にはつながらない。むしろ、コミュニケーションを豊かなものにしてくれるのだ。言葉のヴェールに切り込み、他者の言葉や思考を体感しようとする作業こそが、言葉や文学の楽しみの最たるものだと思う。

 ところが、それはとてもエネルギーのいる行為だ。疲れているほど、人は言葉を自分に引きつけて理解しがちだ。また、言葉のヴェールをたっぷりと楽しむためには、本質に対して渦を巻くように近づくに如くはない。ところが、執心深さが欠けている時は、言葉の内部に垂直に突っ込んでいくしかないものだ。これは決して褒められる行為ではない。むしろ、言葉が持つ豊かな風をとらえきれずに墜落した、僕の中ではそんなイメージだ。

 そう、僕は疲れているのかも知れない。僕の中には自分の言葉しかないのだ。常にモノローグ。イシイさんは、そのあたりを敏感に感じ取ったのだろうか?

2001年12月05日

ウインドウズXPを買う/Kさんのサイト/着信拒否!/農水相の「失言」

 通販で買ったウインドウズXPが、今日到着した。なんやかんやで、これでもマイクロソフトの製品はいくつも買っているのだよなあ。98とMeとXP、オフィス97にオフィス2000。一時はLinuxとMacにこだわろうと思っていたのだが、もうすっかり諦めてしまった。
 だってなあ、仕事になんないんだもん。以前はMac用の「クラリスワークス」で企画書やラフを書いていたのだが、そんなもの、だれも開けやしない。今は、パワーポイントでラフを作り、メールで送信している。仕方ないじゃん、そうするしか他にないんだから。

 最近は、ちょっとした原稿ならウインドウズパソコンで書くようにもなった。今日なんて、雑誌の記事2ページ分の原稿を、「TeraPad」で書いちまったぜ。あ~あ、手になじんだ「Mac+システムソフトエディタ+Atok」という環境とも、そろそろサヨナラって感じかな。特に、Macのキーボードで、コマンドキーではなくCapslockキーを押している自分に気づくと、ちょっとうんざりする。

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 一緒に仕事をさせていただいているKさんから、「ホームページUPしました」というメールが到着。読んでみると、これが楽しい。
 早速、ブックマークする。

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 古くからの知人とメールでやり合った。挙げ句の果てに、向こうからの最後のメールは「着信拒否」。
 きっかけは僕だ。編集者をしているその知人が、自分のサイト日記にルール違反なことをいろいろ書いていた。曰く、ライターの誰々は原稿の締め切りを大幅にぶっちぎる、曰く、うちの編集長みたいに社内で立ち回るのは無意味、曰く編集者なんて大した仕事じゃない……。で、放って置けばいいんだけれど、ついつい「だったら仕事辞めたら?」って書いちゃったんだよな。
 そしたら向こうからは、昔年の恨みがあるからお前とは口をききたくもない、俺がお前を恨んでいるのは一方的にお前に原因があると返事が来た。で、こっちは謝るところは謝るが、全部俺が悪いっていうことはないんじゃない、と反論したんだが、全然とりつく島もなし。そのうちこっちも、売り言葉に買い言葉。行き着いた先は、着信拒否。

 もう2年くらい前になるかな、友人のイシイさんとコミュニケーション不全について話をしたことを思い出した。

 「お前に話してもわからない」ってセリフは、実に悲しい。無論、人間はお互いに分かり合えない存在だということは良く理解している。だが、いや、だからこそ、人はコミュニケーションを願うのだろうと思う。
 僕らはアムロとララアではない。だから、言葉を尽くして分かろうとする。分からなくても分からなくても、なお言葉を尽くそうとする。コミュニケーションの本質は、「分かり合う」ということよりも、「分かり合おうと言葉を尽くす」方に重点があると思うんだよな。言葉を尽くす熱意が相手に届くかどうかが、コミュニケーションが成立したか否かを決めるのではないかしら?

 その知人は、自分を愛する人としかつき合いたくないんだろうな。ま、誰だって多かれ少なかれそうか。僕だってそうだ。ただ、僕は嫌いな人とも話をできる余地を残しておきたいと思う。うんざりするまで、言葉を尽くしていきたいと思う。


 でもなあ、その知人からは、きっと生涯、連絡は来ないだろうなあ。俺もひどい捨てぜりふ言っちゃったし……。
 あ~あ。

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 武部農水相が、「狂牛病はまだまだ出る」と発言して、問題になっているらしい。でも、これって失言か?

 狂牛病の牛はまだまだ発見されるだろう。というか、むしろ発見されなきゃ困るのだ。既に3頭の感染牛が発見された以上、他にもいることは間違いない。専門家によると、狂牛病に感染した牛は、恐らく100頭を超えないそうである。であれば、残りの97頭が発見されなければ、消費する側とすれば困ってしまうじゃないか。

 なお、僕が牛肉を控えているのは、単に狂牛病が怖いからではない。あ、そりゃ怖いことは怖いですよ、頭がスポンジになっちゃうんだから。でも、イギリスでは18万頭の感染牛が出たのに、人間の患者は100名あまり。感染牛がたかだか数頭(今後増える可能性は高いが、それでも桁が違う)出ただけの日本で、狂牛病になる可能性はきわめて低いってことは理解している。
 僕は、農水省や業界が一緒になって、情報操作が行われたことが腹立たしい。消費者ではなく自分たちの利益しか考えず、「日本では狂牛病はあり得ない」と公言していた、そのウソに腹が立つのだ。こうした人々には罰が与えられてしかるべき。だから、しばらくは豚肉と鶏肉を食べる。

 牛肉の売り上げは、以前の7割以下に落ち込んでいるそうだ。この事実は、中央省庁の官僚や企業には印象的なはず。「情報を隠したことがバレると、もっとひどいことになる」という経験を積み重ねてもらうことが、いずれは消費者の利益につながると思うのだ。

2001年12月15日

誕生祝い/文章オタク

 6歳の長女から、誕生日プレゼントの手紙をもらった。下手くそな字で、「ぱぱえ ぱぱまどかやみんなのためにいっぱいいつもはたらいてくれてありがとう。まどかとはるかわとってっもかんしゃしています。」と書かれていた。
 ひらがなの「ま」しか書けない3歳の次女は、手紙はないけどチューしてあげると言っていた。でも、ケーキを食べて風呂から上がったら、そのまま忘れて寝入ってしまった。
 そんなこんなで、僕も35歳になったわけだ。

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 何年か前の年賀状で、十二支をすべて読み込んだ文章を書いたことがある。「『月』下ニ原稿用紙ヲ埋メ(『梅』)、締メ切リ(『桐』)前ノ錯乱(『桜』)ノ中、言ノ葉ノ浮カブヲ待ツ(『松』)……」なんてヤツだ。これは不評だったなあ。というか、そういう仕掛けがなされていたことに気づいた人が、一人もいなかったもん。
 長女が5歳になったときに、保育園の『園だより』に載せてもらった文章も、全く同様だった。その時は、こんな感じ。

まどか、5さいおめでとう

~んとむかし、パパがこどもだったころとくらべると、
ってもあなたはりっぱでかしこいとおもいます。
かけるときはひとりであるくし、えやじもじょうずにかける。
そめそすることもへったし、きがえもできるようになった。
ちゃわんのあとかたづけもできますよね。
もうとのはるかちゃんのめんどうもみてくれて、
いきん、パパとママはほんとうにたすかっています。

さいのたんじょうびおめでとう、まどか!
わることなく、やさしいあなたでいてください。
こにいても、いつでも、わたしたちは
どかがだいすきです。

 こっちは、最初の文字を後ろから拾って読むと、表題と同じ文が現れる仕掛け。これも、誰も意図を汲み取ってくれなかったんだよな。

 こういう文章を読み返してみると、ちょっと僕は、「文章オタク」なんじゃないかと思うこともある。

2005年01月19日

母国語

 山手線の車内で、ある英会話スクールの広告を見た。「英語力が身についたらしたいこと」というテーマで、数多くのコメントを集めるという体裁だった。
 その中に、「作家・コラムニスト」という肩書きで、「英語の小説を書きたい」というような意味のコメントがあった。これ、絶対にウソだよな。本物の文筆家が、英語で小説やエッセイを書きたいなんて思うわけがない。

 僕は言葉というものを、「限りなく透明に近い衣を、何重にもまとったもの」だと思っている。
 例えば、「雨」という言葉。僕の「雨」には、子供の頃雨の日に寝小便をして母親に怒られた記憶とか、ケンカに負けて雨の中逃げ帰った記憶とか、好きな女の子と一緒にいるとき、急な雨に降られて走った記憶とか、そういうものがいくつもまとわりついている。一つひとつはほとんど無色だが、それが何重にも取り巻いた言葉は、抜きがたく僕だけの色合いを放っていると思うのだ。
 言葉の魅力とは、そこにある。それぞれの人が持つ言葉の光彩に惹かれ、その色合いを生み出している、限りなく無色透明な衣の正体を知ろうとする。それが、言葉の喜びの核なのではないか。

 外国語は、そういう言葉ではない。辞書的な意味だけしかない、裸の言葉だ。契約書や説明書のたぐいを書くのなら問題もなかろうが、そんな言葉を並べても、魅力的な文章になどなるわけがない。利き腕とは逆の手で絵を描くようなもの。書き手としても、ストレスがたまるに違いない。

 僕が時折、日本の政治について考えを巡らすのは、これからも日本で生きていくしかないと思っているからだ。僕はこれからも、日本語で考え、日本語で書き続けるしかない。海外で暮らすということは、僕にとっては考えられない選択肢だ。

 僕にとっての母国とは、母国語が使われている国のことなのだ。

2005年06月30日

伝える欲望

 ライターのくせに、僕は本当に筆無精。友人が毎日Blogを更新したり、mixi上で日記を書いているのを見ると、素直に感心する。どうしてそんなに筆まめなんだ、君らは! 僕にはとてもまねできない……。
 Blogの更新をサボっていると、何人かの友人に指摘された。でも、そこにはそれなりの理由があるのだ。ということで、今回は更新頻度が落ちている言い訳をさせてもらう。

 仕事柄、書くスピードは遅くはない。例えば、雑誌に掲載する原稿用紙50枚程度の文章なら、2日程度で書き上げる。しかし、文章を「速く書けること」と「楽に書けること」は、全く別の問題だ。
 友人で同業者のあべくんが、Blogのリンク欄で僕のサイトを紹介してくれている。当初は、僕を「白谷輝英(通称dannie)」と紹介していた。僕自身は、他のサイトや掲示板に書き込む時、「danie」と名乗るが、別にnがひとつ多いくらい全く問題ない。なので、当然そのことをあべくんに連絡することもなく、そのままうっちゃっていた。ところがある日、あべくんのサイトを見てみると、僕の通称が「danie」に訂正されていたのだ。
 誰にも指摘されてないのに、人の呼び名を正しいものに直す。このことを発見した時、思わず僕は、「ライターだなあ」と感じた。普通の人なら、リンク欄に多少の誤字があったところで、気づくことすらないだろう。でも、ライターは訂正しちゃうんだよなあ。誤字を見つけたら直すし、文章に齟齬があれば、それも多分直す。

 僕もあべくんと同様の人種。頭に浮かんだ言葉を噛み砕きもせず、ダラダラと吐き出すような文章は、僕には書けない。いや、ダラダラと吐き出した文章でも、十分読ませるほどの芸があればいいんだけど、そんな境地には全く到達できてないんだもん。
 というわけで、少なくとも僕にとっては、文章を書くことはさほど「楽」なことではないのだ。だから、キーボードを叩く暇があったら、ゴロゴロしたりグダグダしたりダラダラする方を選んでしまうわけ。


 その上、今の僕には「伝える欲望」がない。

 人が文章、特に日記のような文章を書く理由には、いろいろなものがあるだろう。書き留めておかないと忘れてしまう。書くことで癒されたい。ストレスを発散したい。自らの考えを深く掘り下げ、具体的なものにしたい……。しかしそれらは、Web上で文章を公開する理由にはならない。
 日記とWeb日記の違い。それは、読者がいるかどうかという点に尽きる。人がWeb上に文章をアップするのは、他の人に読んで欲しいと思うからだ。いや、ただ読んで欲しいだけじゃない。読者に共感や賞賛、そして愛を求めているのだ。

 しかし、現在の僕は、そういったものを求めていない。妻や子供から十分な愛をもらっているが、それはあくまで副次的な理由。もっと大きな原因は、他にある。今、精神的に「引きこもり」状態なのだ。世界に積極的にアクセスして、それを変えたり、そこから刺激を得たいと望むようなエネルギーが生まれてこない。

 職業ライターとしては、伝える技術の方がずっと大切だ。しかし、伝える欲望が枯れてしまえば、いずれこの仕事から離れる時がやってくる。困ったものだ……。

 そんなこんなで、なかなかこのサイトを更新しようという気になれない。どうして精神的に引きこもっているのか、そのあたりの自己分析もする気になれない。
 今僕がいるのはそんなところだ。

2006年01月18日

響きの汚い言葉

 高校時代の先輩であるかめさんが、ご自身のBlog「あざーーーっす」という言葉について書いている

 僕は、言葉が時間とともに変化していくのは仕方がないと思っている。言葉というものは、使っているうちにどんどんすり減って、意味が薄れていく。だから、新しい言葉を取り入れることで、活性化を図るのは当たりまえのこと。特に話し言葉はそうだ。

 ただ、響きの汚い言葉を使うのは避けようと思っている。「あけおめ」とか「めっこり」とかいう言葉も、気持ち悪くてイヤだな。一方、「がっつり」(これも「めっこり」と同様、北海道で使われている言葉らしい。ひょっとして『水曜どうでしょう』あたりから広まったりしたのだろうか?)は、意味と語感がピッタリと合っている場合、それほど気にならない。


 ま、普段のあいさつは「ち~っす」で済ませている僕が言っても、あまり説得力はないのだけれど。

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