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社会 アーカイブ

1999年07月05日

マッケンローの棄権/「子ども虐待の定義拡大」に対する、厚生省のコメント

 ウインブルドンの混合ダブルス準決勝、マッケンローとグラフのペアは棄権してしまったそうだ。なんでも、グラフが足に違和感を感じて、大事をとったとのこと。マッケンローのプレイを楽しみにしていたのに、残念。ウチはディレクTVに加入しているので、シニアの大会は見られるのだが、若いプレイヤーを相手にマッケンローがどんなプレイをするのかに関心があったので、残念。


 5日付けの朝日新聞夕刊の一面に、「子ども虐待の定義拡大」という見出しの記事が載っていた。なんでも、外傷が残らない暴行や、車やベビーカーへの放置なども、虐待に当たるとして対処するように、全国の児童相談所長に指示したのだそうだ。
 まあ、そのこと自体はむしろ当然のことで、特に感想もないのだけれど、記事中の厚生省側のコメントがちょっと気になった。
 記事から抜粋すると、こんな感じ。

最近ではベビーカーに赤ちゃんを乗せたまま店舗の一階に残し、 二階で買い物をしている間に誘拐されたりする事件が相次いでいる。 男友達と遊びに出かけた母親に家に置き去りにされ、死亡した赤ちゃんもいた。 厚生省は「誘拐した容疑者はとんでもないが、 ベビーカーや車に子どもを残していくことは親の不注意ではなく、虐待だ。(以下略)」

 これ、遊んでる間に子どもを死なせた親と、ベビーカーに子どもを入れたまま買い物をしたら子どもを誘拐されちゃった親が、全く同格に扱われているように読めるよねえ? でもなあ、僕としては、ベビーカーに子どもを残して買い物をする気持ち、わからなくはないんだよなあ……。

 この前、友達の編集者が仕事をしている赤ちゃん雑誌に、読者モデルとして出ることになった。その際、赤ん坊と2人でベビーカーを押したりする写真を撮るということで、下の子どもを抱えて出かけた。市川の僕の自宅から、撮影場所の代々木公園までは、ドアトゥードアで1時間10分程度。当日の気温は30度を超えており、僕は子供をずっと抱っこして、ひどく汗をかいた。14時過ぎに家を出て、帰宅できたのは18時半頃。家に着いたときには、肩はメチャこってるし、ホントに疲れたよなあ。
 ところが、僕は男だし、子供はまだ9キロ余り。しかも、子供を抱っこしていたのは正味3時間ほどだったから、こんなもんで済んだ。でも、世の中の親には、これよりもっと大変な状況の人もたくさんいるわけでなあ。
 例えば、子供が何人もいる、親などの介護もしなくちゃいけない、仕事が忙しい、誰も子供の面倒を頼める人が周りにいない、自分自身の体調がすぐれない……。そんな人は、きっとたくさんいるでしょう? そして、そんな人が時間のない中で、エレベーターやエスカレーターの完備していない、通路のひどく狭い、館内音楽がけたたましい、空調が効きすぎていて風邪をひきそうな、そんなデパートでたくさんの買い物をしなくちゃいけない、そんなケースだってあるでしょう?
 もし僕がそういう立場に置かれたら、もしかしたらマズイかもって思いながらも、「ほんの少しの時間だから」って子供を置きっぱなしにしちゃうかもしれない。だから、少なくとも、子供をベビーカーに入れたまま、買い物をしてしまった親を、無条件で責める気にはなれない。「虐待だ!」なんて言ってる厚生省のお役人も、自分がそういう立場になっても絶対に子供は離さないって言いきれるんだろうかねえ?
 ま、お役人が「虐待だ!」って語気を強めるのはいいけれど、だったら並行してやるべきことがあるだろう、母親が子供をベビーカーに置きっぱなしにせずに済むような対策作りがさ。単純な話、一時的に保育を頼める施設があれば、こんな事件は起こんないわけだし、スーパーやデパートが保育コーナーを作ったり、バリアフリー的な構造を取るように工夫するように指導するって手もあるんだし。

 子供をベビーカーに入れて買い物に行ったら、そのまま誘拐されてしまってっていう母親の話、あれ、僕が住んでいる市川市内の出来事なんだよね(確か、行徳のほうだったような)。そういうこともあって、この事件は良く覚えてる。少なくともこの事件の母親って、パチンコや男に夢中になって子供を死なせた親とは、全然違うと思うんだけどなあ……。

1999年08月09日

右翼の宣伝カー/国旗・国歌法案と通信傍受法案について

 銀座の某編集部で作業をした後、阿佐ヶ谷のデザイン事務所に打ち合わせに行くことになった。しかし、時間が1時間ほどあいたので、渋谷に出て暇つぶしすることに。
 ところが、渋谷の駅前は右翼の街宣車が長い長い列をなしている。おかげで、スクランブル交差点はいつまでたっても青にならない。もしかすると、警察が右翼対策で信号機を手動で切り替えるようにしたのだろうか? とにかく、何分待っても歩行者用信号は赤のまま。
 仕方なく交差点であたりの様子を観察していると、街宣車から人が何人か降りてきた。そのうちの1人は、街宣車の屋根の上で演説をスタート。
 「本日は、ハンソデです」
 半袖? あれ、そう喋っている人は、長袖を着てるじゃない。カーキ色の、揃いの軍服チックないでたちだよなあ、みんな……。
 3秒ほどして、ようやく気がついた。「反ソデー」だ。今日は、ソビエト軍が満州に侵攻した日だったよなあ。なるほど、それで右翼が大挙して現れたわけか。
 とりあえず状況は理解できたが、相変わらず信号は赤。本当はセンター街の方向に行こうと思っていたのだが、あきらめて駅の反対側へ移動。しばらく散歩だけして、再びJRに乗った。うだるような暑さの中、大音量の演説を聞きながら、スクランブル交差点の信号を待ってた人々は、あれからいったいどうしたんだろう? 


 ところで、今日、国旗・国歌法案が参議院の委員会を通過したらしい。

 僕は、若い頃、特に高校生くらいの時は君が代・日の丸大嫌いだった。でも、最近ちょっと考えを変えた。
 日本ってのは、国境の存在をなかなか実感しにくい国だ。今の韓国と北朝鮮のように、「国境を超えると、そこは敵だった」なんて歴史は、ほとんど持ったことがない。
 ところが、世界では、国家とか民族の存在を常に感じずにいられない人も多い。そして、これからは日本も、そうした人々と付き合っていかなくてはならない。
 「国際化」とは安易なコスモポリタニズムではない。互いのナショナリズムを互いに認め合い、理解し合うことだろうと思う。であれば、国という存在についてあまりに無意識的な日本人にとっては、国歌とか国旗程度の象徴は、あってもいいかな、なんて考えるのだ。
 そりゃ、君が代や日の丸に悪い印象を持ってる人も多いだろう。でも、ユニオンジャックだって星条旗だってトリコロールだって、それ相応に汚れているのだ。むしろ、日の丸の汚れを常に意識することで、新たな戦争への傾斜を防ぐことだってできるんじゃないだろうか(無論、それにはそれなりの教育が必要なんだろうけどさ)。
 それに、今の若い連中、君が代の意味なんて知らないヤツのほうが多数派なんじゃない? 「さざれ石の巌となりて」なんて、短歌の枕詞並みだよ、ある種。「君」とか「代」っていう言葉の意味に、必要以上に神経質になる必要はないんじゃないかなあ。


 それより心配なのは、盗聴法案(っていうか、通信傍受法案だっけ?)。

 この法案自体は、仕方ない面もあると思う。だって、そうしないと凶悪犯罪を検挙できないってのはある程度本当だろうから。
 日本の警察は優秀だって、良く言われる。でも、ある本で読んだところによると、日本警察の検挙率の高さは、住民からの通報・協力があったからこそ達成できたんだって。
 確かに、以前の日本は住民同士のコミュニケーションが濃くて、よそ者とか犯罪者が入り込むと目立ちやすい社会だったんだろう。ところが、社会の流動性が高くなり、一方で地域・血縁のコミュニケーションは弱体化する一方。隣に住んでるヤツの名前や顔も分からん状況で犯罪が起こっちまったら、そりゃ警察としては捜査するのも大変だろう。住民からの情報提供っていうチャンネルを失ったら、代わりに盗聴だって気持ちはわからんでもない。
 でも、この法律って難しいよね。運用に、ホントに気を使わなきゃ。
 以前、警察組織の中にオウム真理教の信者がたくさん食い込んでいて話題になったよな。もし、オウム信者が盗聴によって教団に不利な情報をつかんだとしたら、悪用する可能性は十分に考えられる。自分たちを非難する人物を襲撃したりすることもできるわけだ。
 オウムに限らず、そうしたことをやる可能性がある団体はいくつもある。だから、盗聴するにもさまざまな安全装置をかけておかないとヤバイと思うんだよな。盗聴時には、公平な第三者が立ち会う、盗聴した場合はその事実を後日当人に連絡する、盗聴によって得られた情報を操作関係者が不当に外部に漏らした場合は厳罰に処す……。そうした具体的な運用方法があやふやなまま、法案が通ってしまったらかなりマズイ気がするんだけど。

 しかし、「自自公」って何なんだ? 勝手に集まってヤバそうな法案、強引に通してさ。選挙の時に、「私達は、将来○○党と組みます」って言っとけよ。特に公明党。「野党だから公明党に投票した」って有権者も決して少なくはないはずなのに……。節操なさすぎだっつうの。

1999年09月18日

彼女の実家と房総旅行/一時的な託児施設の充実/ゲームショーの客と遭遇

 土曜日、日曜日と、家族と彼女の実家の総勢8人で、房総の館山へ小旅行。このところ昼夜逆転生活に突入している僕にとっては、かなりツライ道程だった。まず、土曜日の行きの電車で、早くも爆睡。昼過ぎに館山駅に着き、駅の近くの海岸で子供たちを水遊びさせているときにも、レジャーシートの上でうとうと。さらに、15時過ぎにホテルにチェックインしたら、夕食の時間までベッドで睡眠。
 バイキング形式の夕食を済ませ、部屋に戻ると、彼女の弟が麻雀卓を用意していた。さっそく、ビールを飲みながらの家族マージャン。6人の大人のうち、手の空いた2人が子供たちの相手をしつつ、深夜2時まで卓を囲んだ。ホントに、旅行気分の欠けてる旅行だ。
 で、マージャンが終わると目が冴えてしまった。皆が寝静まる中、ベッドの中で何度も寝返り。
 朝起きて夜寝る生活は、大変だ。

 日曜日、帰り道の途中でららぽーとに寄り、キッズコーナーで1時間だけ子供たちを遊ばせてから帰宅。ずっとどちらかの子供を抱きかかえていたため、肩がひどく凝った。帰りの電車の中でビールをかなり飲んだこともあって、、夜になって頭痛もしてきた。

 しかし、3歳と1歳の子供を連れての移動ってのは骨が折れるよな。今回は実家とともに移動したから、大人の数が多くてまだマシだったが、そうしたヘルプのない状態で旅行なんてしようものなら、ホント、ヘビーに違いない。
 そういうことを考えると、子供が2人以上いる専業主婦の人って大変だよなあ。1日中子供の相手をしてるってだけでストレスたまりそうなのに、その上外に出て気晴らししたりするのも難しい。これで、周りに話し相手も少ない、ダンナの帰りも遅いなんてことになったら、多少イライラしちゃうのもしょうがないよなあ。
 パチンコをしてる間に子供を死なせちゃう親は、やっぱり人でなしだと思うけどさ、でも気持ちはわかるんだよなあ……。僕も、ずっと子供の相手だけをするなんて事、できないもん。自分の時間が欲しいし、好きなことがやりたい。子供のペースで生活するのはシンドイ。

 だからさ、保育園の一時預かりなどのシステム、もっと充実させてあげないとって思うんだよな。


 ところで、旅行の行き帰りの電車には、ゲームショーの客がたくさん乗っていた。ほとんどの人のお目当ては、やはりプレステ2だったりするんだろうか。
 でも、帰りの電車では、ドリームキャストのビニールバッグを肩から下げている人の姿が目立った。きっと、販促用にばら撒いていたんだろう。セガ、必死なんだなあ。
 僕はプレステ2にはものすごく期待しているし、きっと買うと思うけれど、でもセガにも頑張って欲しい。SCEの一人勝ちなんて状況を許さず、強力なライバルとしてゲーム市場を刺激してもらわないと。
 僕は、Macユーザーで、携帯はIDOで、CSはディレクTV。「2番手商品」を買うことが多いのだ。別に意識しているわけではなく、仕方なく使っているケースが多いんだけどさ。
 なので、セガにも愛着があるんだよなあ……。いまだに僕のセガ・サターンは現役だし。今は、チュンソフトの「街」を、もう一度やり直しているところ。他にも、面白いソフト、たくさんあるのに。ま、しばらく待っているとプレステに移植されたりすることもあるんだけど。

1999年10月01日

東海村の放射能漏れ事故/Iさんと新宿で飲み

 テレビで見た限り、少なくとも2人の専門家が「この種類の事故は起こってはならないこと」だと言っていた。東海村の放射能漏れ事故。

 でも、科学者や技術者たちがどんなに細心の注意を払って施設を作り、作業をしても、事故は起きる。だって、そうした施設を実際に動かしているのは、最終的には人間。そして、人はミスをする動物だもん。どんなに努力をしても、「起こってはならない」事故や「考えられない」事故を防ぐことはできっこない。

 しかし、東海村の人々、冷静だったよなあ。少なくともテレビの報道を見る限りでは、原子力施設の管理主体(「JCO」だったっけ?)の担当者などにつかみかかったりする人は見当たらなかったから。僕なんかは、絶対に、ひと暴れくらいしたい気分になると思う。だって、自分や家族の健康、命が脅かされてるかもしれないわけだから。
 放射能って目に見えないから、自分がどの程度危険なのかは、JCOやら科学技術庁やらの担当者の言葉以外に知るすべもない。ところが、この人たち、なかなか信頼できそうにないじゃない。だってさあ、よくわかんないけどさ、「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が起こったときも、彼ら(って全く同じ人たちではないだろうけど。でも、彼らが「もんじゅ」の人たちと違うメンタリティを持ってるって保証は、どこにもない)はとにかく自分たちのメンツや立場を優先したからな。作業員や地域の住民の安全とか、彼らを安心させるために情報を開示することなんて全然考えてなかった。
 今回も、そんな感じ、あるでしょ。事故が起こった場合は、すぐに茨城県などの自治体に連絡を入れるって約束になっていたのに、実際に連絡があったのは事故から1時間も過ぎてから。最初は、被曝した人は3人ってことになってたのに、深夜3時の今は21人に増えてる。本来は2.4キロまでのウランしか入れてはいけないことになっていた容器に、16キロものウランを注入したのが事故の原因だって言われてるらしいけど、じゃあなんでそんなことをしたのか、その辺の事情もオープンになってない。そんな状況で、彼らを信じろって方が無理だと僕なんかは思うんだよな。
 でも、報道を見る限りでは、現場周辺は比較的冷静なようだ。なぜなんだろう? 自分たちに害を与えた奴らが、どうして事故が起こったのか、自分たちは安全なのか、これからどうなるのかという情報を十分に与えてくれているとは思えないのに、どうして……? そう言えば、大蔵省がバカな政策をかまして膨大な公的資金を国民から巻き上げたときも、厚生省がエイズに関する情報を隠して自分たちの保身を優先したときも、似たような状況だったんじゃないのか?

 いや、みんな、絶対に暴れたい気分なんだと思うんだよな。不安で不安で、叫びたいような人も多いに違いない。ところが、そこで暴れないのが、日本人、少なくとも現代の日本人なのだ。
 それは、ある意味では日本人の長所なんだと思う。例えば、阪神大震災のときは大きな混乱も略奪も暴力も発生せず、外国のメディアからは驚かれた。日本人は、廃墟の中でも秩序を忘れない、と。どんなにひどい状況に追いこまれても冷静でいられるのはすばらしいことだと思う。ただ、どんな状況でも権力や、情報に従順でいるということは、それは美徳ではないだろう……。

 今危険にさらされているのは、原子力施設を設計した人や、茨城県に設置することを決めた人たちの健康ではない。あくまで、近隣の人々の健康と財産と命なのだ。もっと彼らが、大きな声を出してもいいと思うんだけどなあ……、ってちょっと広瀬隆みたいだが。


 17時に取材を終えた後、新宿でライターのIさんと飲み。サザンテラスのオープンテラスの店で「ギネス」を飲んだ後、東口の焼き鳥屋で日本酒、ひと歩きしてからもう一度サザンテラスでワイン。
 このIさん、ホントにユニークな視点を持っている人なのだ。友人・知人だけでなく、僕が知っている作家やエッセイストまで話を広げてみても、Iさんくらい刺激的な視点を投げかけてくれる人はあまりいない。少なくとも僕にとっては。特に、彼にサッカーと文化、特に日本文化のグダグダ加減を語らせたら、天下一品。
 ところが、今はIさんがサッカーに関する文章を書く場所が、あんまりないんだよなあ。もったいないことだ。
 とりあえず、ウェブ上に掲示板を作って、そこでサッカーの話をしようよと約束して別れる。

1999年10月03日

JCOの「裏マニュアル」の存在が明らかに/東海村住民が冷静な理由は?

 JCOが「裏マニュアル」を作り、国の承認を受けていない手順で作業を行っていたことが発覚。
 この報道を見たときは、さほどの驚きはなかった。むしろ、「やっぱりな」という感じ。全国に、原子力発電所や核燃料の処理工場、その他関連施設がいくつあるのかは知らないが、賭けてもいい、こうしたふざけた作業を行っているところは、東海村のJCOだけではないはずだ。他にもたくさんの、臨界状態寸前の事例があるのは間違いない。
 人間ってのは、楽することばかり考えている動物だ。自分を見てれば、そんなことは否応なくわかる。
 最初は、核燃料を扱うということに対して、強い緊張があるのは当然だ。ところが、同じ作業を何年も続ければ、いつしか当初の緊張感は薄れ、怠惰と安逸に流れることになる。危険性よりも、作業効率を優先するようになる。「一昨日も昨日も事故なんて起きなかった。今日もきっと大丈夫だろう。えいっ、いいや適当にやっちゃえ」ってことになる。

こ ういう施設の責任者の常套句って、「ここは絶対に安全です」なんだよな。でも、そんなことは「絶対」にありえない。だって、作業するのは人間なんだから。どんなに完璧なマニュアルを作っても、いくら高性能なコンピュータを導入しても、それらを作り、それらを使うのは人間なんだから。そして、人間は、「絶対」なんて言葉とは、遠くかけ離れた存在なんだから。

 いつかは、事故が起きるのだ。
 それがすべての前提だ。

 一昨日の「ノート」では書かなかったが、どうして東海村の住民が比較的冷静なのか、その理由として想像できるものが1つある。それは、彼らがリスクに対する見返りを、あらかじめ得ていたということだ。つまり、金をばら撒かれていたってこと。

 人間の行動は、「得失」というものさしによって決められている部分が多い。ちょっと前に、「幸福の条件」っつう映画があったよなあ。ダンディな大金持ちから「100万ドルあげるから、1晩だけ俺の女になれ」と誘われた夫婦の話。あれと基本は同じだ。
 もし、大金持ちから提示された額が1万ドルだったら、あの夫婦はそんなバカな提案に耳を貸さなかっただろう。でも、10万ドルだったらどうだったろうか? おそらく、少しは悩んだうえで、拒否したと思う。ところが、それが20万ドルだったら、あるいは30万ドルなら? 50万ドルだったら拒否してただろうか? どこかに、拒否と受諾の臨界点が存在するのだ(そして、それはまさしく100万ドルだったのかもしれない)。
 僕が東海村に住んでいたら、きっとそんな風だっただろう。核燃料の関連施設が作られるということに対して、イヤだなあと思う。ところが、住民に対して支払われる補償金だとか、住民に対する就職先の提供とか、そんなものも提示される。で、核というもののもたらすリスクと、施設がもたらす利益を天秤にかけて、反対か賛成か態度を決めるのだ。
 だから、東海村の住民は、10年以上前に施設の受け入れを決意したときから、こうした事故が起こるリスクに関して考え抜いていたのかもしれない。考え抜き、受け入れたということは、リスクに関してある程度の覚悟はできていたのだろう。だからこそ、今回比較的冷静でいられたのかもしれないのかな、と。

 ところで、「幸福の条件」の大金持ち役って、確かロバート・レッドフォードだったよな。これが佐藤蛾次郎だったら、200万ドルでもどうだったか。それもまた、「得失」のうち。
 東海村の住民にとって、JCOはレッドフォードだと思っていたら、実は蛾次郎がお面をかぶっていただけだったと、そういうことなのかも。うん、そりゃ文句の一つも言いたくなるわな。

1999年10月21日

原田知世はいつから「アーティスト」?/ダグ・フルーティってカッコイイ/西村政務次官、「核武装」発言で辞任

 午前中に1本原稿を書き上げた後、ボーっとテレビを見ていた。と、原田知世のビデオクリップがCSから流れてきたのだ。見ると、なんだかすっかり、「女性ヴォーカリスト」という雰囲気で歌を歌っている。いつの間にこの人、今井美樹のようなポジションになってたんだろう? 全然知らなかった。
 僕の中では、歌手の原田知世の位置付けってのは、「ザ・ベストテン」で、「時をかける少女」を裏声をひっくり返しながら唄ってた人ってところだったからなあ。当時は、安田成美か原田知世って感じだった。
だから、原田知世の歌の上手さには、結構驚きました。歌って、練習で上手くなるんだねえ。それとも、「ベストテン」の原田知世は、単にアガリ倒していただけだったんだろうか?


 午後からはチリワインを飲みながら、、NFL「ビルズ対スティーラーズ」をテレビ観戦。ダグ・フルーティとコーデル・スチュワートという動けるクォーターバック同士の戦いは、ベテランのフルーティが率いるビルズが24対21で勝利。
 フルーティやスチュワートみたいな機動力のあるQBのプレイって、嫌いじゃない。ダン・マリーノみたいなポケットパッサーのプレイより、ずっと楽しい。まあ、昔(イーグルスだったっけ?)のランドール・カニンガムみたいに、QBがチームのリーディングラッシャーになっちゃったりすると、ちょっと違うんだけど。一直線の攻撃じゃなく、パスありランあり、しかもたまにはスクランブルなんかも見せてもらって、フットボールの楽しさ満載って感じが一番いいんだよな。
 その点、今日の試合はかなり面白かった。

 特に、フルーティっていいよなあ。身長は5フィート10インチっていうから、177~8センチ。僕とほとんど変わらない。今のNFLのQBの平均サイズは195センチくらいだから、それより20センチ近く低いのだ。小柄だって理由で、ずっとNFLでは過小評価されつづけて、CFLでのプレイを余儀なくされてきた苦労人。で、昨年ようやくNFLでプレイして、大活躍した。今シーズンも頑張ってる。もう37歳なのに小気味いい動き、小さい体なのに大男相手に力の勝負を挑む。かっちょいいよなあ。
 今年はちょっと、ビルズの試合を見てみようかと思った次第。


 防衛庁の西村政務次官が辞任。情けないくらい、予想通りの決着。
 臭いものにはフタ、キツイ議論は先送り、いつものことだ。

 核武装をしない国は危険にさらされているって考え方は、もうあまりにも古すぎてダメだろう。でも、議論をする価値はある。議論をすることで、日本にとって必要な武装は何かということが見えてくるかもしれないじゃないか。
 結論は、そりゃ簡単には出ないだろう。ある人は一切の戦力放棄(自衛権をも含めた)を主張するかもしれない、ある人は核武装を言うかもしれない。でも、例えば核武装を主張する人が、どうして核が必要なのか、核を持った場合のメリットとデメリット、運用コスト、危険性、得られる利益、周囲の国との関係の悪化、それらすべてをバランスシート上に乗せて話をする。あるいは、非武装中立を主張する人が、どうして非武装中立が優れているのか、その可能性と危険性、他国から攻め込まれる可能性の高さ、侵攻を受けた場合の対策、それらをバランスシート上に乗せて話をする。それを聞くだけでも価値があると思うんだけどなあ。
 きっと、あるべき防衛の姿、できるだけ多くの国民の利益が最大になるような防衛政策は、この2つの間のどこかにあるのだろう。だから、彼らの話を聞いて、自分にとっての理想の国防政策を、国民1人1人が考える材料(反面教師だって立派な材料だ!)にすればいいのに。
 誰かが大声で「日本は核武装すべし」って連呼してたら、ほとんどの人は「そりゃ違うだろう」って思うだろう。それだって意味がある。違うって思ったら、どうしてそれが違うと思うのか、では正しいこととは何か、それを実現するためにはどうしたらいいのかって、ステップを踏んで考えてみるかもしれない。そういう人が現れるための、いい機会だったかもしれないのに。
 気づき、情報を仕入れ、考え、発言するという、当たり前の手順を踏む人が増えたかもしれないのに。

 でも、この国といったら、目をそむけ、無知を恥じず、思考停止することが、一番楽に生きられる手段ときたもんだ。ったく、なんだってんだろうなあ。

1999年10月25日

父母会に対する徒労感/「幼児虐待当事者」のホームページと、虐待する親の孤独

 朝、子供たちを保育園に連れていった際に、園長先生としばらく話しこむ。例の、保育園が抱えているトラブルに関する件だ。
 事件が起こってから約3ヶ月、父母がそのことを知ってから1ヶ月半が経過。状況は、あまり芳しくない。
このところ痛感しているのが、この事件に関するいろいろな人々の体温の差だ。一番体温が高い(つまり、当事者意識が強い)のは、保育園の園長先生と、直接トラブルに巻き込まれた保育士さん、そして一部の父母。それに対し、大部分の父母や、トラブルを直接体験していない保育士さん、市役所の保育課の職員、それぞれの体温は微妙に違っているのだ。
 僕としては、自分の子供の安全は自分で守らなきゃ仕方がないと思っている。で、保育課の職員や警察の人々が、こうした問題に対して体温が低いのは、ある程度仕方がないかなとも思う(だって、安全を脅かされているのは自分の子供じゃないもん)。でも、父母の大部分が、こんな反応しかしないとは思ってなかった……。
 ここ数週間、僕としてはいろいろとやったつもり。ウェブサイトを立ち上げたり、1週間に3度は園長先生と会って情報を交換したり、緊急の父母会を開いたり。でも、熱意を持って動いている父母はホントに一部だけで、あとの人たちは傍観しているだけ。また、熱心な人にしても、自分が中心になって行動を起こすことには尻込みしている現実。
 結局、いろいろと骨を折っているのは、いつものメンバー。全員の利益のために、一部の人間が負担を背負い込むという構図は相変わらずだ。おっかしいよなあ。
 みんなの利益を守るためなの行動なのに、協力しようと腰をあげるのはごく一部。協力しようと言ってくれる人数が少ないから、その人にかかる負担は大きくなる。負担が大きいから、誰もが協力したくなくなる。そして、協力する人はさらに減る。
 悪循環は止まらない。
 なんだか、今、少し徒労感を覚えているのだ。


 「幼児虐待当事者による幼児虐待の記録」というホームページのニュースが、朝日新聞の朝刊に載っていた。朝10時の時点でアクセスしてみたら、Forbidden状態。既にジオシティーズのサーパーから削除されてしまったようだ。

 夜になって、件のホームページが海外のサーバーで公開されているという話を聞く。早速、掲示板などの情報を頼りに、そのページを閲覧してみた。
 そうまでしてこのページを見たいと思った理由は、1つは、単純に興味があったから(ほとんど「のぞき趣味」に近い。お恥ずかしい)。
 もう1つは、幼児虐待をする人間の環境と心理っていうものは、果たしてどんなものなのか知りたかったからだ。

 僕は、子供を虐待する親の気持ちは、少しはわかるような気がしている。僕も子供と一緒にいて、「しんどい」と思うことがたくさんあるからだ。こちらは大人、子供が楽しいと思う遊びは、僕にとってはちっとも楽しくない。特に、仕事をたくさん抱えて心が重~くなってるときや、体調が悪いときなど、子供と長時間付き合うのは、正直苦役に近かったりもする。
 特に、長女が1歳になり、彼女の育児休暇が終わって職場復帰してから、長女との間に言葉によるコミュニケーションが成り立つようになった1歳10ヶ月目くらいまでは辛かったな。長女が泣いて、オムツを替えても、ミルクや食事をやっても泣きやまなくって、眠いのかと思い、抱っこして歌を唄いながらゆすってやったらバタバタと暴れてさらに泣いて、イライラしながらも優しく言い聞かせたらさらに泣いて、カチンと来て大きな声で「泣くな!」と言ったらさらに大泣きになって……、なんて時は、ホントに途方に暮れちゃうもんなあ。機嫌の悪いときは、そのまま部屋に閉じ込めてしまおうかと思ったりするもん。ま、しないんだけどさ。でも、ネグレクトしちゃおうって気持ちは良くわかる。

 長女が1歳過ぎだったころに比べれば、現在1歳6ヶ月の次女の面倒を見る方が全然楽だ。というのも、今は長女がいるから。子供と1対1で向き合わなきゃ行けないという状況ではないから。次女が言うことを聞かずに泣きとおしていても、長女と「はるかちゃん(次女)、なかなか泣き止まないねえ」「どうして泣いてるんだろうねえ」などと話すことで、ずいぶん楽になる。ストレスの逃げ場があるのだ。
 長女と2人だけのときは、そうではなかった。お互いにまっすぐ向き合って、ストレスを逃がす場所がなかったのだ。自然イライラも昂じて、思わず手を出してしまったこともあった。

 最初のデートとかでも同じだよな。お互いにシャイな高校生とかが、いきなり面と向かって話をしようとしても気詰まりになったりするもん。まずは映画みたいに、互いの視線が平行になる場所に行くでしょ。
  男         女
  ↓         ↓
  ↓         ↓
  映画館のスクリーン

 続いて、ウインドウショッピングとかオープンエアの喫茶店とかに行って、視線を少しクロスさせる。
  男         女
   \       /
     \   /
   ショーウインドウ
もしくは喫茶店の外の景色

 で、心理的な距離が十分に縮まったら、そこで初めて向き合ってみるってな流れがいいのじゃあないか、と。

  男→→喫茶店のテーブル←←女

 子供を育てる際にも、同じようなことがあるのではないかと、僕は思ったりするのだ。子供と1対1で、真正面から向き合うだけでは、いずれしんどくなる。でも、そこに第三者が存在すれば、辛さの度合いはグッと減ると思うのだ。
つまり、
  親→→→←←←子供
という関係よりは、
  親→→→←←←子供
   \       /
     \   /
      第三者
というような関係の方が、親のストレスは(おそらく子供のストレスも)大幅に軽減されるのではないかなあ。

 なので、僕は経験的に、幼児虐待が起こる原因の一つはその親が孤立しているからではないかと思うわけだ。だから、件のホームページには興味があった。どんな環境に置かれた人間が、虐待をしているのかを見てみたいと思ったのだ。
 で、見てみました。
 ……これはひどいね。もし、ここに書かれていることが事実だとしたら、この女性(本当に女性かどうか、わかったもんじゃないけど)は刑事告訴されるべきだろう。また、こういう環境で育てられた子供が、将来どんなふうになってしまうのかを考えると、胸が詰まる思いがする。
 このホームページは、ホントなのか嘘なのかわからんけど、でもおそらく、こういう風に子供を育てている(「育てる」という言葉が、そもそも違うっつう話もあるが)親は、世の中にたくさんいるのだろう。
 何ヶ月か前のニュースで、ここ5年間で虐待によって死んだ子供は26名(日経の記事だったと思う)だと言っていた。当たり前のことだが、これは氷山の一角に過ぎない。虐待で死んだ子供はもっと多いだろうし、死なないまでも虐待された子供はもっともっと多いはずだ。

 おそらく、虐待を加えている親のかなりの部分が、社会的に孤立した形での子育てを余儀なくされているのではないかと、僕は想像している。そして、彼らの孤独をなんらかの形で解消しなければ、幼児虐待は今後増えていってしまうのではと危惧している。

1999年10月27日

「街のデザイン」/日本シリーズ、ダイエーが王手

 朝、園長先生と雑談。例の「幼児虐待ホームページ」も話題にのぼった。
 園長先生も、親が社会的に孤立しているとマズイよねえって言っていた。保育園としても、近隣の父母を対象に「子育て相談」を企画するなど、園児以外への子育て支援のためにいろいろ頑張っているらしい。でも、現実問題としては、人手が足りていない。
 第一、普段の保育だって大変なのだ。ウチの保育園の4、5歳クラスでは、20人以上の子供に対して保育士さんはわずか1人。長女が通っている3歳クラスでも、30人近い子供を2人の保育士さんが面倒見ている。僕なんか、たった2人の我が子の世話をするのにも四苦八苦なのに、他人の子供を何十人も預かっている保育士さんたちは、本当にご苦労されてると思う。さらに、最近では保育園で起こったトラブルが原因で、近所の公園への「園外保育」もひんぱんにやってくれているみたい。言うこと聞かない子供を外へ連れ出すなんて、メチャ大変だろうなあ。ホント、お疲れ様です。
 で、そういう状況で、さらに園児以外の子供のフォローもするなんていうのは、物理的に無理があるのだ。さらに、追い討ちをかけるように、保育予算の削減がやってくる。

 こういうとき、お馬鹿な役人と議員は、「一律○%の予算カット」なんてことをやっちまう。ったく、社会をデザインするって発想が、微塵もないんだからなあ。いらない(いや、それができることでそれなりの利便性が発生するのだろうが)道路を1本作る予算があったら、その金で保育士さんが何十人、何百人も採用できるのに。
 市川市ってのは、言うまでもなく東京のベッドタウンだ(平成7年の時点で、全18万世帯のうちの10万世帯が核家族世帯、6万5000世帯が単独世帯だという調査もあるし)。僕らみたいに、20代後半から30代の両親と子供1~2人という構成の家庭は、おそらく最大のグループではないかと思う。だったら、そういう層を狙った制作ってえのがもっと打ち出されてもいいんじゃないのかなあ?
 例えば保育。例えば教育。例えば住宅。例えば商業施設の充実。例えば交通網の整備。そういう部分にフォーカスして予算配分をする、そして、そのことを外部にもアピールする。「市川市は、若い核家族層にとって住みやすい街です」、と。そうした環境が良くなれば、多くの人が市川に住みたいと思うようになるだろう。そうすれば、税収も上がるかもしれないし、それによって街の環境はさらに充実できる。
 そういう、「街のデザイン」というか、「街の強み」を作るというか、そんな発想をする政治家っていないのかなあ?


 日本シリーズは、ダイエーが王手。これで3勝1敗。
 ダイエー、明日の先発は楽になったなあ。2戦目にKOされた若田部を出して、リベンジ(余談だが、「リベンジ」って絶対今年の流行語大賞に選ばれるだろうなあ)を狙わせてやってもいいし、佐久本やヒデカズといったところを出してもいい。余裕がある。
 ちょうど、シリーズが始まる前の中日が、こんな感じだったなあ。正攻法で野口で行ってもいいし、川上でもいい。工藤が出てくることを予想して、あえて山本昌をぶつけていく手もあった。ところが、明日の中日の先発は、もはや野口以外にあり得ない。立場が全く逆になってしまったのだ。
 王さんとしては、工藤を中4日で出すなんていうバカなことさえしなければ、このシリーズはいただきだろう。工藤の先発、それだけはやめて欲しいなあ。もし工藤で負けたら、6、7戦のピッチャーはビビっちゃうからねえ。永井や星野が好投できたのは、第1戦で工藤がピシャっとやってくれたから。精神的な柱である工藤を、中4日で無理使いして失敗したら、流れが逆転してしまうもん。
 もちろん、工藤ファンとしては、中4日で先発して完封、MVPってのが理想ではあるけれど、でもやっぱりここは若田部か佐久本でしょう。で、工藤と永井を残して福岡で優勝決定。工藤が完封でMVP、と。願望ですが。


 ひどい腰痛に悩まされる。なんだろう? 変な寝相で寝たのかなあ?

1999年10月31日

アウシュビッツ、上九一色村、東海村……。残虐行為がルーティンワークに変わるとき

 今月は最悪だったなあ、精神的なエネルギーが枯渇しちゃった感じだった。仕事もあまりしなかったのに、映画も見ないし、本も読まなかった。今月読んだのは、「戦争論」(多木浩二/岩波新書)と、「面白すぎる日記たち~逆説的日本語読本」(鴨下信一/文春新書)の2冊だけ。雑誌の類も、週刊文春やSPA!、Numberくらいで、定番ものばっかりだった。野球とサッカー、アメリカンフットボールの観戦は、多少多かったかな。あとは、「みんなのゴルフ2」のスコアが上がったくらい。なんだったんだ、10月は。
 ま、多少改善の兆しが出てきてるので、来月はちょっとはマシだろうかなあ。

 その「戦争論」だが、その中にアウシュビッツに関する記述があった。
 強制収容所でユダヤ人を虐殺していた人たちの多くは、罪の意識を全く感じていなかったらしい。彼らは、官僚として自分の職務を忠実に果たしているだけだと思っていたそうだ。
 この話を聞いて思い出したのが、松本市や営団地下鉄でサリンをまいた、オウムの実行犯連中のことだった。彼らも、組織の歯車として、自分に課せられた職責を全うすることしか考えていなかった。あるいは、東海村のJCOの職員もそうだったのかもしれない。自分の行為がどのような危険をはらんでいるかということより、仕事を期限内に、より効率的に終わらせることが重要になっていたのだろう。
 人間とは、目の前にぶら下げられているニンジンを追う馬と、実は大差ないのかもしれない。日常の仕事に追われるうち、目の前の仕事に対して近視の度は進んでいく一方なのだ。

 なので、あらゆる組織において、定期検診の必要性は高いと思うわけです。東海村でも、科学技術庁なりがもう少しきちんとしたチェックをしていれば、今回のような事故は起こらなかったはず。
 僕としては、こういうチェック機能を役人が果たせる可能性に関しては、極めて懐疑的だ。むしろ民間のチェック機構を創設して、彼らが組織の枠を超えていろいろな場所で検証を行うというスタイルが望ましいと考えている。

1999年11月30日

IさんとWebの話/携帯の着メロ

 朝の9時半過ぎに、友人のIさんに電話。そこで、Iさんが今関心を持っている分野に関して、Webを使ったネットワーク作りをしたいというアイディアを聞く。
 アプローチのやり方や分野は多少違っているものの、発想はまさに僕のサイト(ここと、保育園の父母会サイトのいずれも)と同じだった。ある共通の利益、興味、境遇を持っている人たちが集まり、情報交換や意見交換をするための「場」を作ろうという行き方なわけだ。
 僕にとって、「場」を作り、整備するということは、今の一番のテーマだったりする。これは僕の実感値でしかないのだが、世の中に対してなにか言いたいことを持っている人って、多いと思うんだよな。で、そういうことってWeb日記とか、友達同士の雑談とか、あるいは1人1人の心の中でやりとりされてたりするんだけど、それを有効な行動に結びつけるための場所がない。場所があっても、そこに気軽に参加できる土壌がない。
 例えばね、僕の子供たちが通っている保育園の父母会って、かなり大きな事件が起こってさ、みんなで一緒に考えませんかって呼びかけてみても、参加してくれる人ってせいぜい全体の3分の1くらいだったりするわけだ。それって当事者意識が希薄な人(「きっと誰かがやってくれる」「多分御上がやってくれる」式の)が多いということだけではなくて、きっと、父母会という存在のうっとうしさとか、あるいは、参加したいと思ってもなかなか参加できない条件があるからだと思うんだよな。「下手に父母会に入って役員に祭り上げられて、いろんな雑用を押し付けられたらたまらん」「仕事が忙しい」「家事で忙しい」「自分以外に子供の面倒を見てくれる人がいないから、行事には参加できない」「父母会や、市との懇談会に出たところで、子供の保育環境が変わるとは思えない」……。
 そうした問題を、個人が努力してクリアすることには限界がある。例えば、仕事が忙しいと言う人には、地域活動に参加する場合の有給休暇に関して国や地方自治体が援助を行う、子供の面倒を見てくれる人がいない人には、パートタイム的に子供を預かってくれる保育施設の設置を進めるなどの方策が考えられるだろう。で、そのためには当然お金が必要。で、そのためには自分たちの利益を代表してくれる人が議会に席を確保しなきゃダメだ、そんな方向で物事を考えていたりするわけだ僕は。

 とりあえず、Iさんとは1時間余り話をする。後半は自分の考え事をしてて、Iさんの話がおろそかになった部分もあったけど(ごめんよ)。ま、こういう話は長期戦覚悟だからなあ、仕事やプライベートの合間に進めなきゃいけないことだから。お互いに、来年のうちにはもう少し具体的な形ができあがってるといいなあ。


 新しく携帯の端末が変わった。で、これには「オリジナル着信音」を作る機能がついている。こうしたヤツをみると、とりあえず何か入れてみようって思うのが人情だよな。
 早速Webを検索して、着メロのデータをいくつかピックアップ。Misiaの「陽の当たる場所」、奥田民夫の「イージューライダー」、ブルーハーツの「Train-Train」を入力してみた。元のデータで気に入らない部分は、自分でアレンジしなおしたりして。
 でも、入力が終わり、いざ設定をしようと思ったときに気が変わっちゃった。だって、着メロに凝るのってなんか、自意識過剰な気がして(ま、そうゆうことを考えること自体が、逆に自意識過剰なんだけど、てへへへ)。オリジナルの音を着信音にするのって、ま、1つには自分の着信音が他と区別しやすいってメリットもあるけどさあ、でも、その音を周りに聞かせたいっていう部分もあるわけでしょ、違うのかな? なんかそれって、ちょっとイヤらしくない? 「私はこんな曲を選ぶ、ええセンスの持ち主でっせえっ!」ってな主張、どうなんすか?
 ってなことで、オリジナル着信音の採用はナシ。結局、「着信音3」っていうのを使うことにした。


 今月読んだ本は、「コスモス 上・下巻」(カール・せーガン著・木村繁訳/朝日文庫)、「スローカーブを、もう一球」(山際淳司/角川文庫)、「ゴリラーマン 1~4」(ハロルド作石/講談社漫画文庫)。他に、「河童 他二編」(芥川龍之介/岩波文庫)と「レッドドラゴン 上・下巻」(トマス・ハリス/早川文庫)を再読。

1999年12月01日

個人情報の流出

 朝日新聞の夕刊で、早稲田大学が江沢民氏の講演の参加者名簿を警察に提出していたという記事を読んだ。昨日の朝刊には、名前などの個人情報に病歴をセットにした名簿を、業者が販売しているという記事も目にした。NTTやその関連会社の社員、あるいは警察官が、個人情報を不正に流していたって報道も、このところ立て続けになされている。
 こういう、特定の企業や機関が持っている情報を横流しする犯罪は、企業にとってマーケティングというものが最重要視される今、絶対に減ることはない。モラルのない企業は、消費者ターゲットを絞り込んで宣伝効率をアップするためなら、個人情報に金を払うことを躊躇しないだろうし、モラルのない社員や公務員はどこにでもいて、彼らは大した罪悪感もなく僕たちの情報を企業に売るのだろう。あ~、やだやだ。

 僕たちは、毎日いろんな企業・機関に、さまざまなデータを取られている。スーパーやデパート、レストランでクレジットカードを使えば、何を買ったかを把握され、銀行には毎月の電話代、ローンの残高、収入などが筒抜けになっている。おまけに、ディレクTVでペイパービューのエロビデオでも見た日にゃあ、どんな女優・タイトル・ビデオメーカーが好きなのかもバレバレになってしまう。
 そうそう、どこかの家電メーカーが、インターネットに接続できる電子レンジだか冷蔵庫だかを発表してたよな。ネットからレシピをダウンロードして料理できるってヤツ。こういうヤツを使ってると、そのうち「ふんふん、このウチの主婦は凝ったケーキを作るのが好きみたいだなあ。よし、ケーキ作りの調理器具のカタログを送ってやれ」とか「なんだ、ここの家庭はレトルトばっかりだなあ。栄養剤の案内したら一発だ」ってな感じで、営業されちゃったりするんだよな、きっと。

 しかもさあ、この先、国民総背番号制みたいなことになったら、こうしたデータって、すべて連結されちゃうんだよな。住所や電話番号、家族構成のような基礎データはもちろん、食べ物の好みや良く読む雑誌、好きなアーティストに女性のタイプまで捕捉されちゃう。なんかそれって、えらい気持ち悪いよなあ。
 まあ、便利っちゃあ便利なのかもしれないけど。例えば、「そろそろリビングの電球が寿命です」「来年3月に2歳になるお子様のために、こんなプレゼントはいかがでしょう」なんて、メチャきめこまかい案内が来たりするかも知れないもんな。でも、そんなのに慣れちゃうと、単なる消費マシンになっちゃいそうだ。やっぱヤダ。自分のことくらい、自分で決めたいもん。今の時代、それすら幻想なのかもしれないけどさ。

1999年12月04日

保育課との懇談会

 朝の9時半から、市の保育課と「市川市公立父母の会」とで行う懇談会に出席。
 父母会側からはいくつかの要望を出しているのだが、保育課の方で最も多い返答は「それは予算がないので厳しい」というパターン。なんでも、市の方は財政緊縮の折、一般会計の総額を1割減らそうとしているらしい。で、保育予算も1割減ということにしたいのだそうだ。
 こちらとしては、保育料予算を減らしてもらっては困る(大体、今でも十分とは言えないのだから。近隣の市区町村に比べても市川市の保育予算は決して高くはない)。一方で、一般会計の額を圧縮しないと、市の財政が破綻するというのはわかる。だから例えば、保育予算は現状維持だが土木予算を2割減らして、全体としては1割マイナスにすればいいと思うのに、どうも市の予算編成っちゅうものはそういう風には行かないらしい。前年までの実績をもとに、とにかくどの事業でものべつまくなしに1割減らせと号令がかかっているのだそうだ。なんておバカな。

 父母会としては、各園への看護婦の配置とか、延長保育時間に正規保育士の配置などを要望している。でも、これらは全て予算がらみの話。保育課の担当者レベルでは、「予算がないから……」という答えで終わってしまう。じゃあ、財務担当に要望を出せばいいのか? それもどうやら違うらしい。では、議員に陳情するか? でも、その議員が議会で多数派工作をしてくれないと、予算を大きく動かすのは難しいだろう。では、市長を動かすのか……?
 一体、どこにどのように話を持っていけばいいのか、激しく悩む……。

 僕なんかは、予算なんてものは、その年度の事情に合わせて弾力的に組めばいいと思う。毎年、ゼロから予算案を作ればいいと思う。でも、お役所ってのはそうではないんだよな。とにかく先例がありきで、そこから足したり、引いたりっていう発想しかできない。どこをどう動かせば、そういう非能率的で大バカな組織運営をやめさせられるんだろうなあ?

 そうそう、「全体に予算を1割カット」という話を聞いて、僕、「じゃあ市の職員も1割給料カットするんですか?」って質問しようかとも思った。でも、そんなことを保育課の人に言ってもしょうがねえもんなあ。結局大人な僕は、その質問をぐっと飲みこんで、他の質問をした。えらいぞ、俺。


 11時30分過ぎに、会は終了。会議室を片付けた後、現役員の方とちょっとお話。もしかすると、次期役員をやることになるかもしれない。大変そうだよなあ。どうしようかなあ。

1999年12月09日

霞ヶ関で取材/事件と教訓/刑事ドラマが好き?

 13時から霞ヶ関ビルの喫茶店で、初対面の編集者と打ち合わせ。多少早く着いたので、特許庁に勤めている友人と会おうと思い、携帯を呼び出したが、この番号は現在利用できない旨のメッセージ。そう言えば、ちょっと前にcdma-Oneに乗り換えたなんて話をメールでしてたなあ。ったく、番号変更の通知くらいしろよな、と携帯に一人ごちる。
 14時から同じビル内で取材を行い、終了後新橋に移動して打ち合わせ。
 書店で「何がどうして」(ナンシー関/世界文化社)、「JMM VOL.1 日本の選択した道」(村上龍編集長/NHK出版)、「スポーツ20世紀~サッカー 英雄たちの世紀」(ベースボールマガジン社)、他に雑誌を数冊購入。
 帰りの電車内で「英文法の謎を解く」(副島隆彦/ちくま新書)を読了。

 18時過ぎに保育園に到着。彼女が仕事で終電帰りなので、子供たちに食事を与え、風呂に入れ、本を読んで寝かしつける。4歳の長女は、もうかなり手が掛からなくなってきたのだが、1歳9ヶ月の次女は自我が強くなりつつある年頃。僕が食べさせるスプーンをはねのけ、自分の手で食事を食べようとする。あるいは、まだ浴槽にお湯がたまってないのに、勝手に服やオムツを脱いでしまう。寝る前に読む絵本をあれこれ持って来ては、あたりに散らかす。
 22時半頃になって、ようやく子供たちは就寝、ホッと息をつく。次女が言葉で十分にコミュニケーションを取れるようになるまで、あと半年か一年、そこまでが一番大変な時期だろうなあ。それを越えてしまえば、我が家の子育てはぐっと楽になると思うのだが。

 しかし、つくづく1人で子供を育てるってのは大変だ。ほんの数時間子供の面倒を見るのだって大変なのに、これが1年365日ずっと続くなんざ、とても考えられないよなあ。
 僕がたまに、幼児虐待する母親の気持ちは多少はわかる気がするって思うのは、やはりこういうことを経験してるからだろうなあ。子供たちとずっと顔を突き合わせて生きるのって、やっぱどこかで息苦しいと思うもん。もちろん、自分の子供ってのはかわいい。でも、それでも四六時中一緒にいれば、そりゃ多少はイヤにもなるって。

 虐待する親の気持ちは少しはわかるけど、だからと言って虐待を許すつもりはない。もちろん、「お受験殺人事件」(これ、動機はどうやらお受験以外のところにあるみたいだけど、便宜上こう呼んでおく)の犯人になんて同情する気はさらさらない。
 ただ、誰もがそうした立場に追い込まれる可能性があることだけは、みんなが覚えておかなくちゃなんないだろう。でないと、今回の事件が、社会的背景とはなんのつながりのない、突出し特異なケースに終わってしまうもんな。
 いや、覚えておくだけじゃダメか。1~2ヶ月前に大騒ぎになったけれど、今じゃ全然話題にならない「ストーカー(?)殺人」とか、あるいは「毒入りカレー事件」、「神戸の事件」、「女子高生コンクリート詰め事件」……、どれも、事件の教訓って十分に生きてるんだろうか? あるいは、オウム特別法が作られた「地下鉄サリン事件」にしても、法律制定というやり方が本当に正しかったのか、それだけで十分だったのか、そんなことも考えなくちゃいけないんだよなあ。

 どこかに、そうした犯罪と社会的な背景なんかを手際良くまとめた資料がないかしら?


 夜、子供たちが寝静まったあと、録画しておいたドラマ「ケイゾク」(TBS系)を見る。
 ……そっか、オレ、「ちょっといびつなスーパーマンが活躍するディテクティブストーリー」が好きなんだなあ。

2000年01月16日

父母の会定例会/中田と名波を見る/Linux

 昼過ぎに家を出て、市川市公立父母の会の定例会に出席。各園に配る会報紙を仕分けしたり、来月の会報のネタと分担を決め、2時間ほどで終了。
 最後の方で、『「平日は忙しいから、せっかくの休日は子供と一緒に過ごしたい。それなのに、休日をつぶして父母会に参加するなんてイヤだ」という人って多いよねえ』なんて話になった。そうなのだ。子供を保育園に入れている以上、その親は平日は働いているのだ。しかも、フルタイムで働いていれば、帰宅するのは夜になる。例えば、僕の妻が仕事から帰ってくるのは19時。そこから、子供が寝るまでの間は、どう考えたって4時間以上にはならない。だったら、せめて休日くらいは一緒にいてやろう、そう思うのは人情だ。中には、土曜日も出勤という会社だってある。職種によっては土日が稼ぎ時だってケースもある。そりゃ、父母会なんかに参加するのは大変だ。
 僕はもう、活動を絞り込むしかないと思っている。市との懇談会によって、父母の要望を伝えて行くことを中心にして、あとの仕事は思い切ってなくしてしまう。定例会も1時間程度でサクッと終わらせ、可能ならネット上に機能を移したい。そうして、多くの人が気軽に参加できるような環境にしないと、ますます参加者は減ってしまう。負のスパイラルに落ち込んでしまうのだ。

 とりあえず、父母会の会報に、3ページ分の原稿を書くことになった。会報は全部で4ページなので、4分の3ということだ。ま、一応書くことは本職だし、物理的にはそれほどの負担ではないのだが、締め切りが増えるのは心理的にはツライ。しかも、確か、僕の子供が通っている保育園の「園便り」でも、原稿を頼まれてたなあ。これも、そろそろ書かなくちゃ。だははは、売れっ子だなあ。
 ふ~。


 夜になって、ある原稿の企画が変更になったとファックスが入る。ひええ、締め切りはもう3日後だよ! んな無茶言うなよ~っ、とファックスに向かって一人ごちる。


 日テレで放送されていた「ヴェネツィア対フィオレンティーナ」戦と、フジテレビで放送されていた「ローマ対ヴェローナ」戦を見る。短い時間しか見られなかったが、中田はさすがにまだ、完全にはフィットしてない感じ。1本、左足の惜しいシュートがあったが、キーパーにセーブされてしまった。あれが入っていれば、一気にローマに受け入れられたかも知れないけど、ま、そんなにうまくは行かないか。しかし、1年半前のユベントス戦で2本も決めちゃった、ありゃホントでかかったなあ。カズはセリエAに入ってすぐに鼻を骨折しちゃった。実力ってことよりも、そういうめぐり合わせってヤツで、全然運命って変わってきちゃうんだよね。

 名波は、あんなにいい人だったっけ? サッカーでは、正直じいさんより意地悪じいさんのほうが成功すると思うんだけど、名波ってなんだか気配り君過ぎ。ちょっと心配だ。


 深夜、ふとLinuxをインストールしようと思い、いろいろと作業。でも、どうもうまく行かない。最初は軽い気持ちだったのだが、うまく行かないとだんだん意固地になってくる。
 とりあえずLinux本を一冊買い、さらにハードディスクを増設しようかと思う。
 ん? 俺ってこんなに凝り性だったのか?

2000年01月24日

長女発熱/吉野川可動堰に関する中山建設相の愚民思想コメント

 昨夜から熱を出していた長女の状態が、良くならない。朝の時点で39度2分。昨日書いた文章じゃないが、こういうときに限って妻は深夜残業だったりする。幸い僕の方はスケジュールが立てこんでない状態なので、今日はもう仕事はいいや、と諦めて看病態勢に。

 11時頃熱を計ると、40度1分。熱が引く気配がない。行き付けの病院に電話をしてみるが、月曜日の午前中、しかもインフルエンザの子供が続出ということで、ひどく混んでいるとのこと。長女は熱のわりには元気だったので、病院で長々と待つよりは自宅で寝てた方がマシだと思い、とりあえず熱冷ましのために座薬を使っておく。

 長女のうたた寝の間に、取材のアポ入れ。いくつかの教育機関に電話を入れたのだが、そのうち1ヵ所は「Aさん? いませんよ! 休み。えっ、明日は来るか? わかんないね」との対応。もう1ヵ所では、担当者が電話中だったらしく、「ちょっと待ってください」と言われてから4~5分、そのままでほっとかれてしまった(しかも保留音なし)。
 よく、学校の先生って世間知らずだって言うけどさ、やっぱそれってあるよねえ。キャンパスっていう閉じた世界から出なくても、それで生きていけちゃうってのはマズイと思うんだけどな。「教員免状は30歳以上にしか出さない」というシステム、必要だと思うんだけど。

 昼食に作った卵粥にもほとんど口をつけなかった長女が、14時過ぎになって「そろそろ病院に行こうか」と言い出す。病院に電話を入れると、今は比較的空いているとのこと。急ぎ支度をして外出、30分ほど待ってから診察を受ける。と、予想通り風邪との診断。抗生物質と解熱剤を処方してもらい、16時頃帰宅。


 しっかし、僕がフリーランスで、しかもヒマなライターだったから良かったけど、両親ともに多忙、しかもなかなか有給も取れないような職場に勤めてたりすると、子供が熱を出すとツライよなあ。病児保育の制度ってのは全然整備されてないし、近所の友人に預けていくってことも、なかなか難しいもん。
 僕の友達には、フリーライター同士のカップルとか、ライターとカメラマンのカップルとかが何組かいるけど、多分みんな子供を作ることに躊躇しちゃうところが大きいと思うんだよな。ウチみたいに、妻の実家(ドアトゥードアで30分ちょっと)や僕の実家(こちらは1時間あまり)のヘルプを期待できるところでさえ、時にはしんどいことが多い。これが、実家から遠くはなれて住んでるカップルだと、そりゃ育児とキャリアを両立するのって大変だよ。

 出生率は、ここ数年低下する一方。そりゃそうだ、だって安心して子供を育てられる環境がないんだもん。
 例えば今、土地が値下がりして困っている人たちがたくさんいるけど、だったらさあ、育児しやすい社会環境を作るために公的な投資をしたらどうだって思う。だってさ、出生率が下がれば日本の人口は減る。人口が減れば、土地は余る。土地が余れば、地価が値上がりするわけないじゃない。
 道路や橋を作るより、病気の子供を保育する施設を作って、十分な看護婦と保育士を配置してやる方が、実は地価下落を止められるかもしれないのにさ、そういう発想をする政治家や役人、僕、見たことない。


 そうそう、発想で思い出した、今日の朝刊に出ていた吉野川の可動堰の話題。堰の建設計画に反対多数という結果が出たのに対し、中山建設大臣が「(住民投票は)民主主義における投票行為の誤作動」ってコメントしてたらしい。これはビックリこいたね。「愚民が投票したってろくな結論出るわけない」って、こないにはっきり言っちゃうんだから、度胸あるなあ、この大臣。
 でもな、こういう「シモジモの言うことなんて愚かなことばかり」って発想で動いてる役人って、きっと多いと思うんだな。特に、大蔵省あたりのエリート君は、そんなヤツばっかりじゃねえのかな。


 夕方、次女を迎えに保育園へ。その後、夕食。長女もそこそこ食べてくれて、ちょっとだけ安心。しかし、解熱剤を飲ませても、熱はまだ38度半ばある。


 深夜1時頃に帰宅した妻と、長女のことについて相談。明日も保育園休まなきゃならないだろうからなあ。どうしたもんだろう。

2000年01月26日

日本人、TOEFLの不出来/日本語圏内で暮らしたい/学級閉鎖と学童保育

 朝日新聞の朝刊を見ると、「TOEFL平均点 やっと最下位脱出」って見出しが出ていた。
 別に、TOEFLの平均スコアが低くたって、それが即、日本人が英語ができないということにはならない。だって、例えば上位にランクされているフィリピンやスリランカ、ネパールといった国でTOEFLを受けているのは、ほぼ例外なく、大金持ちの子弟でしかも優秀な人々だろう。ところが日本では、飛びぬけて裕福でなくても、飛びぬけて優秀でなくてもTOEFLくらい受ける。きっと、そういう人たちが平均点を下げているのだろう。

 それはともかく、僕は英語ができない。これは非常に困ったことだ。
 日本は、かなりヤバイ。ほんの10年くらいの間だけなんとか取り繕えばいいと思ってる、「勝ち逃げ世代」の年寄り政治家の皆様方がひどいことをやってるからな。この先、僕が50歳くらいになったら、どんなことになっちゃうんだろうって思う。そんなとき、だったら壊れた日本に見切りをつけて、海外で居住権を取ろうかなんて考えるんだよなあ。
 でも、やっぱ言葉ができないとキツイっしょ。周りの人の喋ってることもわからず、周りの人に自分の意思を伝えることもできない。そんな環境で暮らすのは大変だよなあ。仮に言葉の意味がわかってきたとしても、今使っている日本語と同じレベルで、英語なり他の言語を使いこなせるようになるとは思えない。

 言葉というのは、これまでの経験を幾重にも身にまとって存在しているもの。それら経験のヴェールは、1枚1枚見るとほとんど無色透明なのだが、何枚も重ねるとえもいわれぬ色合いを言葉に与えてくれるのだ。言葉のまわりを覆っている、その経験のヴェールこそが、僕の言葉を、そして誰かの言葉を豊かにしている。
 ところが、母国語以外の言語では、そうはいかない。その言葉を使って得た経験が、絶対的に不足しているんだもん。言葉の腹を切り開いてみても、なんにも出てきやしない。僕は、そんな言葉を使って生活しなきゃいけないなんて、ヤダなあ。

 なので、僕は日本で(正確に言えば「日本語の中で」)暮らしつづけたいのだ。だから、僕の生活を取り巻く状況を、少しでも悪くならないようにしたい。仕方ないんだよ、だって僕は、ここで暮らしつづけるしかないんだから。ため息をつき、無力感に苛まれ、それでも日本の中でやって行かないと仕方ない。なので、「政治」なんて面倒な、ダサいテーマについてうだうだと考えているわけだ。
 あ~あ。


 隣に住んでるNさんの息子さんが、インフルエンザで幼稚園を休んでいるそうだ。でも、クラスの3分の2が休んでるのに、学級閉鎖にはならないらしい。へえ、そんなもんなんだなあ。
 で、今日その話を保育園の園長先生にしてみたら、小学校では学級閉鎖になると、学童保育(放課後、小学生の面倒を見るための施設。保育園は夕方までオープンしてるが、小学校の場合、低学年では昼過ぎに授業が終わってしまうケースも多い。そのため、親が仕事から戻る夕方まで、子供たちを見る場が必要なのだ)も閉鎖になってしまうという話を聞いた。つまり、自分の子供は元気なのに、学級閉鎖になると親は仕事を休まなきゃならないっつうことになる。こりゃキツイなあ。
 大体、正社員で働いている人だって、年間の有給休暇はせいぜい20日あればいい方でしょ? 月に2日のペースで子供が休んだら、すぐに使い果たしちゃう。それに、僕みたいなフリーランスや、パートタイムで働いている人には、有給なんて最初からなかったりもするわけだし。
 じいちゃんばあちゃんが同居していて、しかも地域の大人が一定の連帯感を持ち、遊んでいる子供に目を配っていた頃なら、別に問題はなかったんだろう。子供の数も多かったから、年長の子供がリーダーになって作るコミュニティにいれば、それほど危険も高くなかったろうし。でも今は、育児に祖父母のヘルプを期待できる家庭は必ずしも多くない。それに、例えば子供が誘拐されかかっていても、それを無視して行ってしまう大人がたっくさんいる時代だもんなあ。

 そういう状況に対して何らかの対策をとっていかないと、やっぱり育児は大変なのだ。


 自動車事故にあったデリック・トーマスは、どうやら命に別状はなさそうだ(ただし、同乗者は亡くなったようだが……)。しかし、脊椎に損傷を受けたらしく、選手生命が立たれる可能性もあるらしい。う~む。彼の爆発的なスピード、QBに襲いかかるラッシュ、もう見られないのかなあ……?

2000年01月30日

すごいニュースが続く……/犯罪者の権利と被害者の権利、オウム信者の権利と近隣住民の権利/大蔵省、「毎年30兆円の国債発行が必要」と試算/フランス議会

 相変わらず、喉の痛みは引かない。


 しかし、すごいニュースが続く。
 9歳のときに連れ去られ、19歳になってようやく家族のところに戻ってきた女性の話。例の「ストーカー殺人事件」で殺された女性の元交際相手で、事件のカギを握ると考えられていた男が自殺していたという話。野島伸司脚本じゃん、それじゃ。ま、ドラマでは、誘拐された少女は鉄仮面をさせられてたり、自殺した男は実は体つきの似た別人だったりするんだけどさ。
 しかしなあ、僕も一応、2人の娘を持つ父親。自分の子供に置き換えてみると、こりゃあたまらん気持ちになる。あんまりふざけちゃいけないよな、反省。

 そうそう、思い出した、何日か前に「犯罪被害者の会」(?)って団体が記者発表をやってたよな。その中に、奥さんと小さな子供を少年に殺されたダンナさん(確か山口の方の事件だった)がいて、犯罪者の人権は守ろうとするのにどうして被害者側の権利は守ってくれないのかと訴えてた。しごくもっともな話だ。

 権利、権利と、僕たちは当たり前のように口にする。でも、権利というものには、それを制限する2つの要素が確かに併存していることに関して、注意を払う人は少ないだろう。
 その1つは、「ある人の権利は、他の人の権利を犠牲にしてまで享受できるものではない」ということ。もし、ある人の主張する権利が、別の人が主張する権利と相容れない場合、そこには何らかの調整が行なわれてしかるべきだ。互いの権利の境界線は、ある場合は両者から等距離の場所に、ある場合はどちらかの側により近い位置に引かれるんだろう。
 もう1つは、「権利というものは、常に義務と表裏一体である」ということ。つまり、義務を果たさない人間に、権利は発生しないと、僕は思っているのだ。
 別になにも、例えば憲法で「国民の義務」と定められている納税をさぼったからって、すぐさま「お前の人権、取りやめ!」なんて言うつもりはないよ。この場合の義務ってのは、それよりもっとずっとハードルの低いもの。つまりね、「お前それ、人間じゃねえよ……」ってことをやったら、それは人間としてのルールを破った、人間としての義務を放棄したっつうことになるんじゃないだろうかなあ、なんて思うんだな。
 例えば山口の事件では、犯人の18歳の少年は最初から暴行目的で被害者宅に押し入り、抵抗する女性を絞殺してから強姦したらしい。さらに、近くにいた子供(たしか10ヶ月とか、そのくらいだったと思うが……)が泣いているのを見て、これも殺してしまった。そんな子供に証言能力なんてあるわけないのに、それでも、だもんな。これが、人間として許されることだとは、到底僕には思えない。人間としての最低限のルールを放棄してしまった、そうした凶悪犯罪者に、「人権」を認めることは適当なんだろうか? とても僕には、納得できない。
 それが、被害者側の権利を損なうのなら、なおさらだ。山口の事件のダンナさんは、法廷に妻子の遺影を持ちこもうとしたとき、裁判所から拒否されたらしい。いわく、「被告が冷静に裁判を受ける権利を阻害する」だってさ。そりゃねえだろよ、ダンナさんの「殺された妻子に裁判の様子を見せたい」って気持ちはないがしろでさ、加害者側の権利だけを優先するなんてさ、そりゃどう考えたって変だって。


 あ、そうだ、オウムに関するニュースも多かったな。その中で考えさせられたのが、石井久子の子供の小学校入学を、役所(管轄は教育委員会だったような……)が拒否したニュース。
 今、全国各地で「オウム排斥市民運動」ってのが起こっている。これは、ある程度は仕方がないとは思う。何しろ、オウムは地下鉄サリン事件、長野サリン事件などの数々のテロ活動を行った団体。最近でも、麻原の息子を拉致する事件を起こすなど、その体質は変わってなさそうだ。そんな団体が隣に引っ越してきたら、これは確かにたまらん。

 余談だけど、葬儀場や老人介護施設、学校、保育施設などの建設反対運動ってのも、各地で起こってるらしい。これはオウムの件とは全く違う。
 葬儀場などの施設の場合は、「縁起が悪い」「そんなものを近くに建てられると不気味だし、地価も下がる」「子供の声がうるさくてイヤだ」という理由がほとんど。言わば、住民のエゴなのだ。自分も大声をあげて遊んでいた子供だったし、将来は老人になって人に面倒を見てもらい、やがては火葬場で焼かれて死んでいくつうに、でも自分がそれらによって迷惑をするのはイヤだと言う。それはちょっと勝手だよな。
反対運動をやってる人たちもその辺は感づいているらしく、多くの場合運動の口実は「建設によって自然破壊が起こる」なんてことにしてるんだよな。
 確かに、「地価が下がる」「声がうるさい」ってのは迷惑だろう。だったら、それを補うだけの方策を立てて、それで受け入れ態勢を作ればいい。地価が下がった分は補償し、子供の声がうるさくないように隣家との間は十分にとり、植栽も行う(で、余計にかかった分の税金は、当然住民全体が負担する)。それなら、僕はウチの近くにそういう施設が来ても、全然OKさ。ウチからちょっと離れたところにそういう施設が建って、それで住民税が上がっても、納得して払うし。

 話は戻ってオウムの件。
 オウム自体を、住民が排斥するのはわかる。しかし、石井久子の子供を学校に入れない権利ってのは、住民にはあるんだろうか? 確かに、その村(町?)の子供には、静かな環境で勉強をする権利があるだろう。でもなあ、石井久子の子供にだって、勉強する権利はあるもんなあ。さらに、石井はオウムの幹部(元幹部か、正確には)かも知れんが、石井の子供は決してそんなことない。石井の子供はサリンをまいたわけじゃないし、VXガスで人を殺してもいない。って言うか、オウムの教義を信じてるかどうかもわからん。なのに、なあ。双方の権利の境界線が、入学拒否ってところにあるってのは、それでいいのか?
 わからん。

 オウム本体にしたって、末端の信者は基本的に無害だろう(幹部の連中はアブナイかもしれん)。でも、彼らもいろんな街で排斥され、流浪状態だったりする。
 もともと「普通」の世の中から、ある意味で追い出されてオウムに入った人も多いのではないかと想像するが、さらに排斥運動なんか食らっちゃったら、もう、どんどん世の中に戻れなくなっちゃうんじゃないかなあ。彼ら、ちょっとかわいそうだ。だってなあ、彼らも人殺しなんてしてないよ。1人1人は、善良で小心で、潔癖で理想主義者で現状に対する危機意識も強かったりすんだよ、もしかすっと。でも、あるいはそれゆえに、世の中からはじき出されてしまう。う~む、やっぱちょっとかわいそうだなあ……。
 かと言って、彼らが麻原なり上祐なりの言うことをまだ信じていて、さらに彼らに麻原や上祐の命令が届くとしたら、これはやはり危険なことだ。末端のオウム信者は善良で、彼らに人権があったとしても、その隣人にも人権がある。葬儀場ならあとでフォローがきくけれど、サリンをまかれたら取り返しがつかない。どうしたらいいんだべなあ……?

 この際、「オウム特別区」を作るか? 
 オウム信者を居住させる地区を、法令で作る。信者は共同生活を望んでるんだし、日本のあらゆる地区がオウム排斥を望んでいる。であれば、そういう解決法もありだと思うんだけどなあ。でも、そんなことしたら、国がオウムの存在を公認するって取られるかもしれないし、他の宗教団体が「オレのところも特別区にしてくれ」って言い出すかもしれないもんなあ。無理か、やっぱし。
 だったら、オウムを完全に解体するか?
 でも、言うは易し、だよな。まず、オウム信者全員が教義を放棄するなんて思えない。だって、宗教だもん。もともと宗教ってのは非合理を含んでいるもの。それを承知で皆信じてるんだから、理詰めで説得したって納得するわけがない。感情で攻めるにしたって、親兄弟を捨ててオウムに飛びこんだ信者に対して、どんな方法も対して効きやしないだろうし。だいたい、オウム首脳部が「サリン事件はオウムがやりました」って認めてるのに、それでもまだあんなに信者がいるんだもん。そりゃ、彼らの信仰は筋金入りだよな。
 で、今の時代、電子メールでも使えば、バラバラに住んでいても信者同士簡単に連絡が取れる。例えば、10人以上の信者が集会を開いちゃダメ、とか法律で決めても、チャットで集まっちゃえばいいもんな。それを防ぐには、彼らの電子メールやホームページを、盗聴法案にのっとって調べるのか?  それもエライ怖い世の中だよなあ。いつ自分たちが、同じことやられるからもわからんもん。確かにオウムも怖いんだけどさ。……。


 とにかく、利害が対立している人同士、団体同士の調整をするのは大変だっつうことだな、ってそんな結論かいっ!


 大蔵省が2005年までの国の財政状況を試算して、毎年30兆円の国債発行が必要だって報告したっちゅうニュース、これもビックリした。何が驚いたって、その厚顔無恥ぶりと無能ぶりに。
 だってさあ、今の予算規模って80兆円くらいでしょ? なのに、毎年30兆円の国債を発行するってのは、どんな予算を組んでるわけ? 普通に考えれば、それってよっぽど背伸びした予算を組んでるか、あるいはよっぽどムダのある予算を組んでるとしか思えないじゃん。そんなダメな予算を組んで、おまけにバカな試算を出してさ、それでのほほんとしている大蔵省って、いったいなんなんだ?

 ま、大蔵省は強いもんね。なんつったって、徴税権ってのを持ってるらしいから。いざとなったらシモジモの者どもからビシビシ税金取りたてればいいと思ってるんだろうな。
 だからなあ、僕は英語ができたらいいなあと、心から思う。で、アメリカに脱出して、日本になんてビタ一文の税金も払わないんだ。そんでもって、日本に居残っちゃってすんげえ税金取られてる人のニュースを見て、「あら、日本ってのは大変なんだねえ」なんてコーヒー片手に言ってみたりする……
 でも、僕は英語ができない。だから、大蔵省とか、日本の政治家とかに、すっげえ腹が立っちゃうんだよな。ったく。


 最後に、これもかなり驚いたニュース。
 フランスの議会で、各政党の公職選挙における立候補者を、男女同数にするという法律が可決されたそうだ。これはまた思い切った法律だよなあ。
 個人的には、立候補者の男女比を1対1に固定するっ